2009年7月28日火曜日

聖霊降臨節第12主日

エレミヤ書20:7〜13

いわゆるエレミヤの「告白」の1つ。どの箇所にどれだけ「告白」があるのかは、研究者の間に議論がある。新共同訳は、ここにだけ「告白」という見出しを付けている。
第8主日の解説でも書いたが、エレミヤは、極めて原理主義的な立場にありながら、自らの預言者としての「召命」を問い、そのことを通して、メッセージに普遍性を付加している。その装置が「告白」なのである。

「告白」といわれる部分は、全体として見るなら、「個人の嘆きの詩」に分類される詩であり、一般的な嘆きを述べている。例えば、「わたしの味方だった者も皆/わたしがつまずくのを待ち構えている」(10節)という表現に類するものは、詩編の中に見いだすことができる(例えば、41:10)。さらに、詩の最後に賛美の言葉が記されているのも(13節)、「個人の嘆きの詩」との類似性を思わせる。
この詩をエレミヤに結びつけるのは、「恐怖が四方から迫る」というエレミヤが語ったメッセージの要約が引用されていること(8:25参照)、そして、ヤハウェを「惑わす者」と呼んで、自分の敵対者としている点である(7節)。

エレミヤは、ヤハウェから言葉を受けた上は語らずにはいられないと言う(9節)。しかも、それは、「不正」や「暴力」を告発する言葉である(8節)。これだけなら、他の預言者と変わらない。しかし、他の預言者たちがそのメッセージ故に「迫害」を受けることについての感情を述べないのに対し、エレミヤは苦情を申し立てる。自分が真実(「ヤハウェの言葉」)だと思うことを語っているのに理解されないどころか、かえって苦しい目に合わされる。これを理不尽と感じる、いわば「普通」の感覚を述べている。これが重要である。エレミヤの語る言葉が「普通の感覚」を持つ人から述べられていると感じさせることで、その言葉には説得力が増すことになるからである。

預言者はそれぞれ、自分の語ることを正当なことだと証明しようとした。それが「召命」の物語である(イザヤ書6章、アモス書7:10〜17)エレミヤ書にも「召命」の物語があるが(1章)、エレミヤ書の用意する装置は、エレミヤの言葉が受け入れられないという厳しい現実を逆手にとって、それを説得力に転換しようとするものなのだ。ここに、エレミヤ書の特色があると言っていいだろう。