2009年5月25日月曜日

聖霊降臨節第1主日・聖霊降臨日(5月31日)

ヨエル書2:23〜3:2

 ペンテコステの出来事の「預言」として、使徒言行録2章に引用されている箇所。
 ヨエル書は、次のような構成になっている。
  1. いなごによる被害とその意味づけ(1:1〜2:11)
  2. 悔い改めへの呼びかけ(2:12〜17)
  3. 回復の約束(2:18〜3:5)
  4. 諸国民への審判(4:1〜21)
 いなごの大発生による災害を神からの裁きととらえ、それを機に悔い改めを迫る。これは、ヘブライ語聖書の預言者の中で,特殊な預言である。というのも、預言は多くの場合、迫り来る危機——多くの場合、外国の侵略——を前に、ある者は滅亡を(アモス、ホセア)、ある者は解放を(イザヤ、ミカ)語るのだが、ヨエルは既に到来した危機的状況を意味づけし、悔い改めを呼びかけているからである。
 神は、民の悔い改めに対して応答し、回復を約束する。その最後に、「霊を注ぐ」ことが加えられている。
 民が「預言状態」になることを、好ましい状態だとしている箇所としては、民数記11:24〜29が上げられる。モーセは、「主の民すべてが預言者となればよいと切望しているのだ」と語る。ヨエルの語る「その日」の様子は、荒れ野でのこの出来事を彷彿とさせる。

 使徒言行録は、この箇所を典拠として、「その日」の出来事を記す。モーセが「切望し」、ヨエルが「預言した」、すべての人が預言者となる状況を描くことで、救いの実現を伝えたかったのだろう。

 しかし、ヨエルは、他の預言書と同じく、ユダの救いを諸国民への審判と対置させる(4章)。ヘブライ語聖書の預言者において、この2つはコインの両面のように分かちがたく結びついている。しかも、ヨエル書においては、危難は諸国民による圧迫や侵略ではなかったのに、である。
 「救いの実現」と「他者の没落」をセットにする論理構造は、一見受け入れがたいが、実は、現代人の私たちにも、根深く息づいているものなのかもしれない。

2009年5月24日日曜日

聖霊降臨節第2主日・三位一体主日(6月7日)

イザヤ書6:1〜8

 イザヤの「召命」の記事。神殿での祭儀中に、イザヤは幻を見る。それどころか、「聖なる万軍の主」(3節)を直に「見」てしまう(5節)。神を見ることは許されないことなので(出33:20参照)、イザヤは自分は「災いだ」と言うのだ。

 ところが、ヘブライ語聖書では、時折、直に神を見たということが記されている。出24:11では、民の代表者たちが「神を見て、食べ、また飲んだ」と記されているし、創28:13では、ヤコブは天までとどく「階段」の「傍らに立つ」ヤハウェを見ている。「思い込み」も含めると、その箇所は決して少なくない。
 ヘブライ語聖書を読むと、この神は、独り天上界で、何にも乱されずに、完全なる孤独と静寂のうちにいる「至高の存在」ではない。むしろ、人間に関わりを持とうとし、時折、過保護・過干渉なまでに介入してくる存在として描かれている。

 「聖」であるということは、全く異質の存在を意味する。イザヤにとっては、最初、神は、いわば隔絶した、異質な存在として認識されていたのだろう。ところが、実は、この神は「見る」ことができるし、イザヤに触れるし(6節)、語りかける(8節)存在なのだという事実に、イザヤは目覚める。
 この後イザヤは、この過干渉気味のヤハウェの代理人にふさわしく、一々のことに発言し始める。しかも、6章後半の預言が示すように、「滅亡」と「残りの者」というメッセージを通奏低音にして。

 このような神観を、キリスト教は神学的に発展させてきた。「有神論」においては、超越者なる神がこの世界に関わりを持とうとすると議論される。しかしそれは、神の本質に関する議論というより、その議論をする者の「期待」の表明であると考えられる。「過保護・過干渉な親」のような神を求めているから、このような議論になる訳だ。このような「束縛」をよしとしない現代においては、神観も見直しを迫られているのではないか。

2009年5月18日月曜日

復活節第7主日(5月24日)

エレミヤ書10:1〜10a

 エレミヤは、「木片」から作られ、「金銀」で飾られた「偶像」(3〜4節)とヤハウェを対比し、ヤハウェに向かって、「あなたに並ぶものはありません」と言う(6節)。同様の「偶像批判」は、イザヤ書(40、44章)にも現れるから、バビロンの文化に触れた者にとっては、大問題だったことが想像できる。
 しかし、その手法、結局、ヤハウェと「偶像」とを比べるという手法そのものが、ヤハウェを唯一絶対の神とする主張とは相容れないのではないか。「比ぶべくもない」と言いながら、比べているのだから。
 ヤハウェの優越性の主張は「ヤハウェの嗣業の民」としてのイスラエルの独自性(16節)の根拠として語られているのだが、ヤハウェの超越性の主張に説得力がなくなると、もうひとつの主張も根拠が曖昧になってくる。

 バビロニアの脅威を感じていた時代、さらには捕囚期にあっては、このような主張も意味があったのかもしれない。しかし、この文言を典拠に、今日において「偶像崇拝禁止」を言うことはどんな意味があるのだろうか。「私たちは『偶像』を認めない」という主張は、そのまま、絶対性の主張の根拠とされるが、人間の営みに過ぎない宗教を絶対視することは、「神以外のものを神とする」点で「偶像崇拝」なのではないか。
 エレミヤ書の陥っている自己矛盾と同じ論理矛盾がここにはある。
 現代においてはむしろ、絶対性を主張する者のもつ論理的矛盾——それは、あらゆる人が陥る危険性がある——を暴くテクストとして読むのがいいのではないか。エレミヤという「熱心」で「純粋」な預言者の言葉だからこそ、そう思う。

2009年5月6日水曜日

復活節第6主日(5月17日)

列王記上18:20〜39

 エリヤとバアルの預言者たちの対決を描く。

 実は、このエピソードは、復活節第3主日に指定されているエピソード(17:〔8〜16〕17〜27)の続きである。さらに、有名な19章のエピソードの引き金となる。エリヤの物語を全体として読むと、ここだけを読むときとは異なるものとして立ち現れてくる。

 ヤハウェはエリヤに対し、イスラエル王アハブに面会するように命じるが、ここには具体的な内容は記されていない(1節)。エリヤは、自分とバアルの預言者たち450人の直接対決を提案し(19節)、不思議なことに、アハブもこれを受け入れる(20節)。
 エリヤは、バアルとヤハウェのどちらが「神」であるかを「火」によって証明するよう提案し、民はこれを受け入れる(24節)。結果的には、エリヤが目論んだ通りになり、民は「ヤハウェこそ神」と告白するようになり(39節)、エリヤに扇動された民はバアルの預言者たちをとらえ、エリヤは彼らを殺す(40節)。

 エリヤはこのような戦略をどこで思いついたのか。サレプタのやもめの息子を生き返らせたとき、彼女は、エリヤを「まことに神の人」と認めた(17:24)。民衆には「奇跡による証明」が「有効」だとエリヤに気づかせたのは、彼女の言葉ではなかったか。しかし、もしエリヤがこのような戦略をとろうとしたのだとすれば、彼は民を「愚」なるものと認識していたことになる。分かりやすい「証明」を用いる宗教はうさんくさいものであると、現代の読者の目には映る。

 そもそも、物語は「イゼベルがヤハウェの預言者を(切り)殺した」と言うが(4、13節)、その記事は、他のどこにも書かれていない。それどころか、敵対する信仰の預言者を「殺した」のはエリヤの方だった。

 自分の思惑通りになる、それも敵対者が殺される(正確には、敵対者を自分で殺す)ような事態になったのが、あるいは、「奇跡」によって民を扇動することが「祈りが聞かれる」ことならば、この「神の人」の喧伝する神は、かなり危険な神だと言わざるを得ない。

 ところが19章では、エリヤのこのような戦略が否定される(少なくとも、留保される)。
 18章の出来事に怒ったイゼベルはエリヤの命を狙う(19:2)。エリヤは逃亡し、「神の山ホレブ」に向かう(8節)。きっとそこで、モーセのように、直接語りかけられることを望んだのだろう。ヤハウェはエリヤに語りかけるが(12節)、それはエリヤが望んだような出エジプト時の再現ではなく(11節。出エジプト記19:18〜19参照)、エリヤの行動を認証するものでもなかった。10節、14節に繰り返されるエリヤの言葉は、自分の行動を賞賛して欲しいという思惑を含んでいるが、ヤハウェはこのことには一言も触れない。むしろ、ヤハウェは、エリヤの後継者を指名し、その者によって自分の意思が実行されると語る(15〜17節)。エリヤの目論見は、徹底的に否定される。実は物語自体が、エリヤの行動に疑問を抱かせるように構成されているのだ。別の言い方をすれば、エリヤの戦略や、エリヤが提示する神のありようを、物語は是としていない、少なくとも疑問を抱いて読み直すよう促していると言える。