列王記上18:20〜39
エリヤとバアルの預言者たちの対決を描く。
実は、このエピソードは、復活節第3主日に指定されているエピソード(17:〔8〜16〕17〜27)の続きである。さらに、有名な19章のエピソードの引き金となる。エリヤの物語を全体として読むと、ここだけを読むときとは異なるものとして立ち現れてくる。
ヤハウェはエリヤに対し、イスラエル王アハブに面会するように命じるが、ここには具体的な内容は記されていない(1節)。エリヤは、自分とバアルの預言者たち450人の直接対決を提案し(19節)、不思議なことに、アハブもこれを受け入れる(20節)。
エリヤは、バアルとヤハウェのどちらが「神」であるかを「火」によって証明するよう提案し、民はこれを受け入れる(24節)。結果的には、エリヤが目論んだ通りになり、民は「ヤハウェこそ神」と告白するようになり(39節)、エリヤに扇動された民はバアルの預言者たちをとらえ、エリヤは彼らを殺す(40節)。
エリヤはこのような戦略をどこで思いついたのか。サレプタのやもめの息子を生き返らせたとき、彼女は、エリヤを「まことに神の人」と認めた(17:24)。民衆には「奇跡による証明」が「有効」だとエリヤに気づかせたのは、彼女の言葉ではなかったか。しかし、もしエリヤがこのような戦略をとろうとしたのだとすれば、彼は民を「愚」なるものと認識していたことになる。分かりやすい「証明」を用いる宗教はうさんくさいものであると、現代の読者の目には映る。
そもそも、物語は「イゼベルがヤハウェの預言者を(切り)殺した」と言うが(4、13節)、その記事は、他のどこにも書かれていない。それどころか、敵対する信仰の預言者を「殺した」のはエリヤの方だった。
自分の思惑通りになる、それも敵対者が殺される(正確には、敵対者を自分で殺す)ような事態になったのが、あるいは、「奇跡」によって民を扇動することが「祈りが聞かれる」ことならば、この「神の人」の喧伝する神は、かなり危険な神だと言わざるを得ない。
ところが19章では、エリヤのこのような戦略が否定される(少なくとも、留保される)。
18章の出来事に怒ったイゼベルはエリヤの命を狙う(19:2)。エリヤは逃亡し、「神の山ホレブ」に向かう(8節)。きっとそこで、モーセのように、直接語りかけられることを望んだのだろう。ヤハウェはエリヤに語りかけるが(12節)、それはエリヤが望んだような出エジプト時の再現ではなく(11節。出エジプト記19:18〜19参照)、エリヤの行動を認証するものでもなかった。10節、14節に繰り返されるエリヤの言葉は、自分の行動を賞賛して欲しいという思惑を含んでいるが、ヤハウェはこのことには一言も触れない。むしろ、ヤハウェは、エリヤの後継者を指名し、その者によって自分の意思が実行されると語る(15〜17節)。エリヤの目論見は、徹底的に否定される。実は物語自体が、エリヤの行動に疑問を抱かせるように構成されているのだ。別の言い方をすれば、エリヤの戦略や、エリヤが提示する神のありようを、物語は是としていない、少なくとも疑問を抱いて読み直すよう促していると言える。