2010年2月26日金曜日

復活前第5主日

エレミヤ書2:1〜13

エレミヤ書1章はエレミヤ書全体(ないしはその第1部)へのイントロダクションとしての役割を持っているので、エレミヤ書(ないしはその第1部)は2章から始まる。冒頭に置かれたこの預言は、エレミヤ書(ないしはその第1部)の主題を表す機能を持っている。

注:エレミヤ書がどのような編集によって、どのような構成になっているかに関する理解によって、1章がどこまでのイントロダクションとしての役割を持っているのかという理解も異なる。同様に、ここで漠然と「第1部」と呼んでいるまとまりについても、研究者の間で意見の相違がある。

語り手(「想定される語り手」ということで、「エレミヤ」と呼ぶ)は、エルサレムの過去の「従順」(2節)が失われたことを告発することから、その発言を始める。ところが、その矛先は、すぐに「ヤコブの家」や「イスラエル」に向けられる(4節)。
ヘブライ語聖書でこれらの語が用いられる際には、何をさしているのかを注意深く読む必要がある。おそらくここでは、北王国(の残りの者)が言われているのだろう。こうすることで、「全イスラエル」の南(「エルサレム」)北共に、ヤハウェから離れ去ったことを述べようとしているのだろう。

エレミヤはその責を、「祭司たち」「律法を教える人たち」「指導者たち」「預言者たち」に負わせる(8節)。ヤハウェ宗教の中心部におり、その保持と浸透の責任を負う者たちが機能しなかったばかりか、ヤハウェ以外の神(「バアル」)を神としたと糾弾されている。その際、エレミヤが根拠とするのは、ヘブライ語聖書学で言う「土地取得伝承」、その中でも、「エジプトからの導き出し」と「荒れ野での導き」である(6節)。これらの主題は、ヘブライ語聖書の他の箇所でも、「審判」ないしは「救済」の根拠としてあげられる(「正統な歴史」への回帰は、しかしながら、「保守主義」「原理主義」的傾向を導き出す危険性があるし、私見では、ヘブライ語聖書の「記述預言者」には少なからずその傾向が見られると思う)。
このような指導者への幻滅、ないしは批判が、「心に律法が記され、『ヤハウェを知ること』を教える必要がない」(31:33〜34)状態を希望することへと結びついたと考えれば、興味深い。

宗教的なものに限らず、「指導者」には権力(「パワー」)がある。その権力によって、宗教的な使信も解釈される。エレミヤ書31章の「新しい契約」は、権力の存在を求めない点で、画期的だと言えるだろう(内容の転換ではない)。その解釈が権力のためのものになっていないかどうか、エレミヤは、検証を呼びかけている。

2010年2月8日月曜日

降誕節第8主日

ヨナ書1:1〜2:1

預言書の中に納められているが、ヨナ書は特殊な書物である。預言者の言葉と生涯を記録した(体の)他の預言書とは異なり、ヨナ書は預言者の「物語」である。預言者という存在についての諷刺であるとする意見があるが、説得力がある。

福音書日課(マルコによる福音書4:35〜41)と間テクスト的に読むと、興味深いことが浮かび上がってくる。

ヨナは、嵐が自分のせいで起きていることを知りながら、それを解決するために何もせず、船底で寝ている(5節)。それなのにいけしゃあしゃあと自分が何者であるかを語り(9節)、自分のしたことを明かす(10節)。自分を海に投げ込めというヨナ(12節)に対して、船に乗り合わせた人々は自分たちでできる精一杯の努力をするが(13節)、それでもどうにもならず、結局、ヨナを海に投げ込む(15節)。
イエスの乗った舟がガリラヤ湖で嵐に遭ったとき、乗り合わせた弟子たちは、何も努力せず、イエスに何とかして欲しいと頼む(38節)。ところが、弟子たちのうち、最低4人(ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ)は、ガリラヤ湖の漁師であった(マルコ1:16〜20)。イエスが眠っていた(38節)のは、そんな彼らに任せて安心していたからではないか。ところが、彼らはその知識や能力を発揮しようとはせずに、イエスの「奇跡」の力に頼ろうとしている。

この2つの物語においては、「神に仕える」人々、ヨナやイエスの弟子たちは、自分でできることをしようとしなかった。一方は諦めて、他の人々を巻き添えにすることを何とも思っていなかったし、もう一方は、自分たちの力を使おうともしなかった。これらの物語において一番常識的な行動をしたのは、ヨナと同じ船に乗っていた乗組員や乗客たちであった。そして、彼らは「異邦人」であったのだ。
このような間テクスト的読みは、「信仰」というものの持つ危険な側面を明らかにしてくれる。

2010年2月5日金曜日

降誕節第7主日

列王記下4:18~37

「神の人」エリシャの物語。子どものなかったシュネムの女のために、かつて、エリシャは子どもが生まれるように「預言」した(王下4:11〜17)。その際の言葉は、abal(王下4:14「しかし」、創17:18「いいや」)、「来年の今頃」(王下4:16、創18:10)という言葉が共通しているので、アブラハムとサラに対するイサク誕生の予告と比較するよう、読者を誘う。しかも、エリシャの預言はシュネムの女の「親切」に対する「返礼」として申し出たものなので、創世記18章のエピソードと類似している。

物語は、子どもの誕生からすぐに、「事件」へと進む。子どもは、父のいる刈り入れ中の畑へ行くが、そこで頭痛を訴え(19節)、すぐに死んでしまう(20節)。エリシャはその子どもを生き返らせるが、その方法が「呪術的」である。
母親は死んでしまった息子を、「神の人の寝台」に横たえる(21節)。エリシャはまず、自分の杖をその子の顔の上に置かせる(31節)。それは効かなかったので、エリシャ自身がその子の上に、口と目と手を重ね合わせるように身を横たえる(34節)。これが功を奏して、子どもは生き返る。これらはいずれも、呪術的な癒しにおいて取られる手法である。
これまでキリスト教と、それに基づく聖書解釈では、エリシャの奇跡物語が持つ「呪術的性格」を「『民間伝承』に由来するもの」とし、後の記述預言者たちの倫理的発言よりも前時代的な、劣るものとしてきた。しかし、ここに登場する母親、シュネムの女の行動との関係で見ると、そのような判断は何かを見落としているかもしれない。

シュネムの女が息子の命を助けて欲しいと願ったとき、彼女は、それまでの境界(15節)を超えて、エリシャにしがみつく(27節)。取り次ぎに出た従者ゲハジとの言葉のやりとりでは、彼女の「苦しみ」は伝えられない。そのことを理解しながらも、エリシャは代理の者が持参する「杖」でなんとかなると考えた。それは、エリシャが、彼女の願いがどれほど切迫したものであったかを理解していなかったことを明らかにしているし、身体のもつ力を認識していなかったことを明らかにしている。エリシャの身体がその子どもの身体に触れることによってのみ、「癒し」は可能になった。シュネムの女はそれを「身をもって」示していたのだ。
「身体の接触」のみが伝え得る「力」がある(それは両刃の剣ではあるが)。だからこそ、聖書の解釈において、再び認識されなければならないことのように思われる。