2009年6月30日火曜日

聖霊降臨節第6主日

イザヤ書49:14〜21

 いわゆる「第二イザヤ」(40〜55章)の一部。バビロニア捕囚からの帰還を語る。「破壊され、廃墟と」なったユダ王国の地に、多くの人が帰還し(19節)、「狭すぎる」と感じられるほどになるというのである(20節)。

 この部分には、母親と子どものメタファーが用いられている。「あなた」と呼びかけられ、「母」になぞらえられているのは「シオン」であり(14節)、「子ら」(原文では「息子たち」)と呼ばれている(20節)のは、捕囚となったユダの人々である。「母国」というような表現とも同じ発想だろうか。「母親はその子どもを愛する」という「常識」を基に、ヤハウェがその民を忘れることがないと語る。これが、捕囚からの帰還を可能にする原動力である。
 人間とその心情に基づくメタファーを神に対して用いることは、ヘブライ語聖書の常套手段である。これは、「神」という存在について、ヘブライ語聖書を書いた人々が、極めて「人間的」な理解を持っていたということを表している(「類比=アナロギア」という発想方法である)。これは分かり易く、説得力のある記述方法だということができるだろう。というのも、人間に「同情する神」、人間を「愛する神」というイメージを作りやすいからである。

 このことが明らかにしているのは、ヘブライ語聖書に書かれた「神」は書いた人の期待と心情の投影だという事実である。そして、「人間的」な表現が用いられておらず、「形而上」的な神に関する記述がある場合でも(それは大変少ないが)、書いた人の願いが投影されていることが分かる。従って、神に関する(「啓示」としての)客観的記述としてではなく、期待や願いや心情の込められた文書として読まれるべきなのである。

2009年6月20日土曜日

聖霊降臨節第5主日

申命記26:1〜11

 G・フォン・ラートが名付けて以来、「小祭儀信条」と呼ばれるようになった部分(5b〜10a節)。フォン・ラートによれば、部族連合の中心聖所での祭儀で朗唱され、これが豊潤化されてJの物語の根幹になったという。
 ここでは、「土地取得伝承」というトーラーの物語が、簡単にまとめられている。そこには、エジプトでの苦難とそこからの脱出、約束の地への導き入れという物語の「発端」と「決着」は言及されている。しかし、カナンの地占有の根拠としての族長たちへの約束は、ごくごく簡単に触れられているだけである(5b節)。実際のトーラーだと出エジプト記16章から申命記全体にまたがる、荒れ野での放浪についての記事、つまり「旅」の真ん中の部分はな。さらには、現在のトーラーでは最も重要なシナイでの契約と律法についての記述が、全くない。
 もちろん、聖書学では、「小祭儀信条」がより古い伝承を残しており、荒れ野やシナイの伝承は後になって挿入されたのだと説明している。

 しかし、現在のトーラーの形態を考えると、興味深い疑問が湧いてくる。つまり、「体験」(エジプト脱出と約束の地の占有)と、その体験を基礎とするはずの「規律」(「十戒」から始まる、祭儀上、民法上、刑事上の規定)の間に、「無関係」という関係が成り立ってしまうのである。
 「律法」は繰り返し、「私はヤハウェ、あなたをエジプトの地から導きだした者」と言い、それを、イスラエルが規定を守らなければならない根拠としている。ところが、エジプトを脱出し、約束の地を占有したことだけを語る「小祭儀信条」からは、そのような、「体験から導き出される規律」の存在はうかがえない。「律法」は、その根拠を失ってしまうのだ。
 「律法」と同じ論法は、パウロも用いている(パウロが「律法」に精通していたことを思えば、当然か)。その際は、イエスの死と復活が「根拠」とされる。

 ということは、次のように考えられる。これらの「律法」は、根拠となる物語と、「律法」が物語と不可分であるとする立場を受け入れる者にとってのみ有効なのだ。物語を受け入れない、あるいは、「律法」が物語と結びつかないと考えてしまうと、「律法」はその効力を失う。そして、「小祭儀信条」は、「律法」がそのような「受容」の上に効力を有するのだということを、(おそらくは)図らずも明らかにしてしまっているのだ。

聖霊降臨節第4主日

イザヤ書60:19〜22

 イザヤ書の第3部(「第3イザヤ」と呼ばれる)に含まれる回復の預言。60:1〜7(とくに6節)は、公現日の日課として朗読される(マタイがこれを下敷きにマギたちの来訪を書いたのかどうかは、不明)。

 この箇所が終末的な希望を描いているのかどうかについては分からないが(第3イザヤには多分にその傾向がある)、「来るべき日」のことについて語る際、「ヤハウェがあなたのとこしえの光となる」と言うのは、黙示録の言葉を思い起こさせる(黙示録21:23)。

 このような言葉の前後には、しかし、「城壁」や「城門」(18節)、あるいは「国」(22節)という語があって、そこには、相変わらず「民族」としての関心、ことに周辺諸民族との関係で優位に立ちたいという願望が表されている。16節では「あなたは国々の乳に養われ/王たちを養う乳房に養われる」と言われていた。そうすると、「黄金と乳香」は外国の「富」が「イスラエル」にもたらされることを意味していたことになる(6節)。
 「神の民」としてのアイデンティティが、他の民を従わせる、あるいは、それらの人々の上に立つことと結びついた記述はヘブライ語聖書の至る所に見受けられるが、ことにイザヤ書にその傾向が強い(例えば2:1〜4)。

 もちろん、適うことのなかった願望ではあるのだが、このメンタリティーをキリスト教会が受け継いでいるとなると、話は違ってくる。圧倒的な物質文明と軍事力によってアジア・アフリカ・ラテンアメリカを植民地化したとき、キリスト教はその精神的バックボーンとなった。その論拠に、このイザヤ書のような箇所は、誂えたように使うことができるからだ。
 このような願望を持ち続けながら実現しなかったということと、「預言の成就」のために行動した、いや、自分たちの行動を正当化するために、使える箇所を「預言」に仕立てるというのとでは、根本的に異なると思う。イザヤ書の言葉の「使い方」が問われるだろう。

2009年6月8日月曜日

聖霊降臨節第3主日

エゼキエル書18:25〜32

 エゼキエルの言葉は、文字通りには、新共同訳の小見出しにあるように「各人の責任」について述べている。ある一時期の評判ではなく、最終的にその人が生きた生き方によって、「死ぬ」か「生きる」かが決められるという。親の「功績」も関係ない。その人のしたことだけが問題となるのだという口調は、今はやりの「自己責任」という言葉を思わせる。
 その場合、「正しさ」「正義と恵みの業」(5節)の内容は、6節以下に丁寧に記されている。

 こういう「公明正大さ」に対して、人々が「ヤハウェの道は正しくない」と批判していることを取り上げ(25節)、エゼキエルは弁明を試みている。
 人々の批判は、エルサレムの陥落、ユダの滅亡に対して向けられたもので、「ヤハウェの民」であるはずのユダが滅ぼされるのがヤハウェの意向だとすれば、それは「正しくない」と映ったのだろう。エゼキエルの論法では、先祖(ダビデやヨシヤが思い起こされるが)にどんな立派な人物がいても、過去においてヤハウェの「掟」や「裁き」(9節)を守っていても、今この時点が問題になる。
 だからこそエゼキエルは、ヤハウェの判断が正しく、今からでも「悔い改めて、……すべての背きから立ち帰」るよう、呼びかけるのである(30節)。

 ここには、2つの価値判断が書かれており、その2つが衝突している。人々の感覚が正しいのか、エゼキエルの弁明が正しいのか。
 「ひどい目に遭っているのは、(隠れて)悪いことをしていたからだ」という「常識」は、広く行き渡っている(例えば、「天網恢々疎にして漏らさず」)。しかし、苦境にある人は、通常、「どうして私がこんな目に遭うのか」という疑問を持つ。エゼキエル書の記す衝突は、日常生活で出会う、観点の差異が反映されているように思われる。

 だとすれば、「正解」は存在し得ないことになる。ヘブライ語聖書は、全体としてはエゼキエルと同じ立場を取っている。その立場は、同時に、「全世界(歴史)の唯一の神であるヤハウェ」という論理装置を生み出すことにもなる。
 しかし、エゼキエルの言うような単純な判断方法は、妥当なのだろうか。もっと複雑な要因が絡み合って、物事は起き、進んでいくのではないだろうか。エゼキエルの弁明は、私たちの判断基準に疑問を投げかける。