アブラハムの第2夫人、ハガルの追放の物語。16章にも同じ主題を扱った物語があり、「資料仮説」の根拠である「重複」であるとされる。しかし、単純に「重複」と考えるには、相違点が多い(詳しくは、拙著『アブラハム物語を読む』304〜306、378〜320頁を参照されたい)。
サラは、わずかであってもイシュマエルがアブラハムの財産を相続することをよしとしない(10節)。そのために、自分が見たことを、あえてアブラハムに話さない。
新共同訳は「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見」たと訳しているが(9節)、この本文には問題がある。第1に「イサクを」という目的語はない(七十人訳から補っている)。第2に、「からかう」とされている動詞ts-ch-qのピエル語幹の意味をどのように考えるかである。これには、性的な意味合いも含まれうる(創世記26:8、39:14)。物語の進行から計算して、15〜17歳になっていたイシュマエルが、14歳年下のイサクと、成長という点で圧倒的な差を持っていたとしても不思議ではない。
皮肉なことに、それを認めたくないサラが、真っ先にそのことに気がついた。結婚して子どもが生まれるようなことがあれば、イシュマエルの地位は確立する。その前に行動したのだ。
アブラハムは逡巡する(11節)。せっかくここまで育ってきた長男を追放するのは、家系の存続を危うくすることだと考えたのだろう。ところが、神は、サラの言うことを受け入れ、イシュマエルとハガルを追放せよと命じる(12節)。
これが、ユダヤ教・キリスト教が信じる「神」なのか。弱い立場の者を保護し、助けるのではなく、家父長制の存続のために、より権力を有する者の主張を是認するというのが、「神」のとるべき行動なのか。ことにキリスト教の教える「神」と矛盾するのではないか。Ph.トリブルの問題提起(『旧約聖書の悲しみの女性たち』)は、正しく、有効である。
問題は「アブラハムの子孫」を自認する人々が、これをどう解釈するかであろう。自分たちの「信仰の継承」を理由に、アブラハムとそして、この「神」の行動を容認してしまうならば(代表格はパウロである。ガラテヤ4:21〜31)、それは、自らが説き、信じている教えが、実はその言葉とは裏腹に、自分たちだけの「救い」を保証し、そのためには他者の排除をもいとわないものであることを表明することになるのである。