ホセアの語る神は「人間くさい」。怒り、嘆き、喜び……あらゆる「人間的感情」が、ホセア書の中には渦巻いている。そもそも、「ゴメル」を巡る問題をきっかけに語り始められるこの書が人間関係に基づく言葉(「夫」「妻」など)や感情を表す言葉を用いるのは当然だと言えば、そうだろう。
6章は、ヤハウェのもとに「帰ろう」という言葉から始まる(1節)。これはヤハウェが引用しているもので、「いやし」や「生きる」という期待をして、人々が発言している(2節)。
その期待に、ヤハウェは反応する。「わたしはあなたに対して何をしようか」(4節。新共同訳「わたしはお前をどうしたらよいのか」)と自問した結論は、期待に反して審判をもたらすというものだった(5節。新共同訳「わたしの行う裁きは光のように現れる」はLXXに基づく読み替え)。
奇妙に思われるが、基本的には人間の行動や思惑に対して「反応する」というのが、預言書における神ヤハウェの行動パターンである。ホセア書でも例外ではない。
ヘブライ語聖書において神は、創世記から律法の付与までは、主導権をもって行動していた。しかし、律法によって、状況は一変する。神は、「応報の原則」の中に、自分を押し込めることになった。預言書が前提としているのも、この「律法と応報」における神である。
ところが、「立ち帰る」という言葉を巡って、期待する側と期待される側(神)の間に解釈の相違がある。期待する側の考える内容は明らかではないが、ヤハウェの考える内容は明らかにされる(6節)。ヤハウェは、「愛」(ヘブライ語「ヘセド」=契約に対する誠実さ)を求める。ヘブライ語聖書では、「律法の遵守」と同義語である。もちろん、「律法」には「いけにえ」や「焼き尽くす献げ物」も含まれるが、それだけでは、ヤハウェは満足しない。「完全な遵守」が永続的に行われることを要求する。
このことは、ホセア書の神が機械的な応報では満足しないということを表している。「神を知ること」を求めていることからも伺われる。「神を知る」とは、「神との出会いを通して、神とはこのような存在であることを体験的に悟る」ほどの意味であろうか。「知ること」と訳されている名詞da'athは、動詞y-d-'から導き出されたものだが、この動詞は親密な人間関係をも意味する(創4:1)。このような要求をする神は、まことに「人間くさい」(もちろん、これは、神は語る際に、そのような語彙とレトリックが採用されているということなのだが)。