2009年8月16日日曜日

聖霊降臨節第15主日

列王記上3:4〜15

ソロモンの「知恵」の起源を語るエピソード。この後、「ソロモンの裁き」(「大岡裁き」の元ネタ)(3:16〜28)、ソロモンの統治(4:1〜5:8。「正しく裁く」9節)、「知恵」についてのまとめ(5:9〜14)と、ここでの神の約束が実現したことが語られている。神殿の建設もその「知恵」によるものだとすれば9章までの記述が、さらには、シェバの女王がソロモンに「難問をもって彼を試そう」としたこともその「知恵」の実証だとすればその部分も(10:1〜13)、そして、交易による繁栄が「知恵」の結果であるとすれば(「富」13節)10章の終わりまで、つまり、ソロモンの記事のほとんどが、その「知恵」に関するものだということができる。

しかし、神は条件を付けていた。「わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」(14節)。11:11において、この条件が守られなかったことが、ヤハウェによって認定される。その結果、次々とソロモンに対する反対者が起きてきたと、物語は語る(エドム人ハダド、11:14〜22;エルヤダの子レゾン、11:23〜25;ネバトの子ヤロブアム、11:26〜40)。
こうなると、その晩年に次々と反乱の起きたダビデの治世を思い起こさざるを得ないが、ダビデには特別の「背信」もなく、語り手もそのように認定している(11:6)。では、どうなるのか。ダビデもソロモンも、その晩年には反乱が相次いだが、一方には「背信」という原因があり、他方にはないという、少なくとも、申命記的歴史家の記述方針からは不思議な物語になる。単純に、統治力の低下によるもので、信仰とは関係ないという疑いを持たせる。
しかも、ソロモンの治世は「四十年」と記されていて(11:42)、ダビデと同じ年数であり(2:44)、これは、士師の活躍の後訪れた「平和」の年数と一致している(士師記3:11、5:31、8:28)。これは、実際の年数というより、理想化された数字であろう。とすれば、ソロモンの生涯と治世は、一方で、高く評価されているということになる。
この矛盾するような記述を調停させるために、語り手は、「父ダビデのゆえに」という言葉を語る(11:12)。同様の方法は、ヨシヤの治世についてのまとめをする際にも用いられている(列王記下23:26)。言い換えれば、それほどに、ソロモンの統治に関する評価はアンビヴァレントだということだ。読者は、このアンビヴァレンスに対するそれぞれの解釈を見いだすよう、求められている。

2009年8月15日土曜日

聖霊降臨節第14主日

ハバクク書3:17〜19

ハバクク書は、滅多に読まれることのない預言書だが、その構成は、他の預言書に比べて特殊なものである。
表題(1:1)の後、

預言者の嘆きとヤハウェの答え(1)(1:2〜4;1:5〜11)
預言者の嘆きとヤハウェの答え(2)(1:12〜17;2:1〜30)
賛美の歌(3章)

という構成になっている。

3章は、新共同訳では「賛美の歌」と小見出しが付けられているし、戦勝の歌(古典的な詩編の分類によれば、「共同体の感謝の詩」)と読むのが妥当なようにも思えるが(例えば、7節、13〜15節)、読みようによっては、ヤハウェの戦いが始まることへの期待と願望を歌ったものとも読める(例えば、2節後半、17節)。ヤハウェの「完全勝利」、つまり、政治的にせよ、宗教的にせよ、ヤハウェの民が独立し、他の諸国に対して特別な地位を占めるということは、実現したことなどないのだから、勝利を歌っていたとしてもそれは一時的なものに過ぎず、必ず、期待や願望とセットになっているのは当然だといえば、当然だろう。

17節の厳しい状況は、16節で言われていた「我々に攻めかかる民に」「望む」「苦しみの日」の具体的な内容である。農耕・牧畜の両方における「不作」は食糧危機を招き、国家の存続を危うくする。その原因としては、もちろん、天候の不順も考えられるが、ヘブライ語聖書では、「剣」、つまり、戦争との関連が常に念頭に置かれている。この箇所でも、ヤハウェが戦争に「出ていく」(13節)ことが言われているので、敵国の土地が蹂躙され、その結果、農業に壊滅的な打撃を与えることが考えられているのだろう。そして、預言者は、それを「静かに待つ」のである(16節)。続けて預言者は、敵の農業が、従って、人々の生活が、壊滅的な打撃を受けたことを見て(期待して)、「わたしは主によって喜び/わが救いの神のゆえに踊る」と歌う(18節)。
「敵の敗北は、自分たちの解放=救い」という単純な図式がヘブライ語聖書全体に浸透しているとしても、これほど露骨な箇所は、そう見あたらない。自分たちが敵の侵略を受け、その結果、農業と生活に壊滅的な打撃を受けたことがその下敷きにあると考えるなら、その通りのことが敵にも起こるようにと願うのは、心情的に理解できないことはない。それにしても、これほどあからさまだと、同情の余地もなくなる。

では、現代人の私たちがこのような「報復の原理」から自由かというと、決してそのようなことはない。個人としても、社会としても、また、国家としても、ハバククの時代と何も変わっていないのではないかと、嘆かわしく感じてしまう。それだからこそ、ヘブライ語聖書が人間の現実を映し出す「鏡」、古典としての地位を保っていられるのであるが、そのことを認めたからといって、嘆かわしい状況は好転するわけではない。読者は、このテクストから自らの「行動規範」をつくり出すよう、促されているのだ。