2009年10月25日日曜日

降誕前第8主日

創世記4:1〜10

エデンの園での物語は、その「東」でのカインとアベルの物語へと続く。

おそらく双子の兄弟がいて、それぞれに違う働きを生業とする。そして、それぞれが自分の「労働の実り」を「贈り物」として神のところに持って来たところから、物語が動き出す。神は、一方の「献げ物に目を留めた」が、もう一方の「献げ物には目を留めなかった」(4〜5節)。

古来、この「差」の理由が論じられてきた。農耕と牧畜という2つの文化の違いが背景にあるという説明は、ヘブライ語聖書学では、ある種「定説」のように扱われている。農耕を背景とするカナン文化に対する「否」の表明で、イスラエルの元来のアイデンティティとして遊牧民であることを強調するという物語だというものだ。
ところが、ヘブライ語聖書を通して読んでみると、「遊牧民」として描かれているのは族長たちだけで、その後は、定着し、農耕する。そもそもこの2つを対立項として考えることについては、70年代にメンデンホールとゴットワルドが疑問を呈している。従って、2つの文化の対立という読みは、あまり妥当ではないように思われる。

新約では、カインが本来的に「悪く」、従って、行いも悪かったからだと、概ね論じられている(使徒書日課、ヨハネの手紙一3:12)。「悪」は「悪人」から出るという論理である(福音書日課参照)。
この見方には疑問がある。人間は、その行動に対する評価によって「悪人」と判断される」、というのが、現実ではないか。そして、何が「悪」であるかという判断は、文化的、政治的、宗教的に縛られている。「カインは悪」とする読みも、彼が最終的に罰せられたところから発しているのではなかろうか。

カインの「怒り」に対してヤハウェが発した言葉(6〜7節)が、カインをアベル殺害へと向かわせたとは考えられないだろうか。ヤハウェが勝手な「差」をつけたためにカインは怒っているのに、そのヤハウェが、「正しいことをしたのなら、(顔を)上げられる」と言うのは、一方的に過ぎるよう思われる。説明があって、説得があって、はじめて、カインの「怒り」は収まったことだろう。

降誕前第9主日

創世記2:4b〜9、15〜25

日本キリスト教団の「4年サイクル聖書日課」は、この日から、B年に入る。「4年サイクル聖書日課」は毎年、最初の日曜日に、「創造」に関する箇所をヘブライ語聖書から選んでいる。

「エデンの園」物語(創世記2〜4章)の冒頭部分。1章とは全く異なる関心で、最初の出来事を記す。
物語は、「土を耕す人」としてのアダムが土から造られるところから始まる(7節)。「アダム」と「アダマ(土)」の語呂合わせで両者の近さを印象付けた後、人は土に「仕え(通常「耕す」と訳される)、耕す」(15節)ために、エデンの園に置かれると物語は記す。その労働の実りである「園の木」の実を報酬として受け取る権利付きで(16節)。
この文脈で続きを読むと、「助ける者を造ろう」(18節)というのは、労働の仲間を造ることを目的としていたように思える。そうすると、創造された動物たちが「助ける者」とはなり得なかったということは納得できる。
ところが、「女」の登場によって、この「助ける者」の概念が変えられてしまう。24節は、男と女が「一体となる」と、これまで述べられてきた、労働のための仲間という目的が一変したことを告げる。2人は、「セックスパートナー」として認定されることになったのだ。この変化は、この前の箇所に対する注解者たちの解釈にも影響を与えているし、創世記2章全体の解釈の歴史にも影響を与えてきた。

欽定訳(1611年)はこの箇所の「概略」として、"Marriage instituted"と記した。つまり、中世以降のキリスト教が主張し、社会の枠組として課してきた「教会の祝福する結婚」の典拠とされたのだ。この箇所をマルコ10:2〜12(「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」)と結びつける「4年サイクル聖書日課」も、「結婚の制定」という解釈の路線を継承している。

しかし、この箇所が、元来は結婚という制度や性交渉に関心を向けていなかったことは、この後の3章のエピソードがそれらを語っていないことから、言えるのではないか。女が「命」と名付けられて、「母」と認定されるのはずっと後のことで(3:20)、むしろ、「神(々)のように善悪を知る」ことの方が、大きな関心となっている(3:4)。なぜ、神は人間が「善悪の知識の木」の実を食べて、「知識」を持つことを求めなかったのか。労働者が雇用している者と同じような「知識」を得ることは、その上下関係を危うくしてしまう恐れがあったからとは読めないか(マルクス主義批評的に読めば)。
そう考えると、やはり、関心の焦点は「労働」にあると言えるだろう。「結婚」「性」「家庭」に関心を向けることで、ひょっとすると、その点がぼやかされてしまうかもしれない。