ヤハウェの命から逃げようとした(1章)ヨナだが、大魚の腹で過ごした(2章)後は、命じられたとおり、ニネベに行き、審判を宣告する(4節)。すると、人々は、ヨナの言うことを聴き、「神を信じ」た(5節)。結果どうなるか。
「神は、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた」(10節)。
ヨナは、ヘブライ語聖書で唯一と言っていいほど、その預言の内容が受け入れられた人物である。「滅びる」ということを語った預言者は少なくない(イザヤ、アモス、ホセア……)が、まともに信じ、「悪の道を離れ」る人があったのは珍しい。
ところが、ここに、奇妙なねじれが起きてくる。
ヘブライ語聖書において、預言者の語る内容に傾聴すべきかどうかの判断は、1つしかない(1箇所にしか書かれていない)。申命記18:21〜22である。
あなたは心の中で、「どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか」と言うであろう。その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。
「語ったことが実現する」。この単純な基準だけが、「真正の」預言者と「偽」預言者を区別するものである。
この基準そのものにも、問題はある。「今」、語られている時点で、ことが起こる前に、本物かどうかを知りたいのに、本物で「あった」ことが分かるのはことが起こってからである。これでは、実際は役に立たない。
また、通常言われるような、「預言」と「予言」の区別も、実は存在していないことになる。
しかし、ヨナの場合は、問題は別のところにある。
ヨナは、神が語った言葉を語ったのである。その意味では、「真正の」預言者である。しかし、神が、ニネベの人々の態度を見て、ヨナに語らせた「災いをくだすのをやめ」たのなら、ヨナの語ったことは起こらず、ヨナは「偽」預言者だということになる。ヨナにはこれが不服で、神の「憐れみ深さ」をたたえる定型句を用いて、神を糾弾する(4:2。出エジプト記34:6参照)。
ヘブライ語聖書にその言葉が保存されている預言者は皆、その語った言葉が実現した、実現したということで「真正」性が証明された者たちである。その多くは、イスラエルやユダの滅亡を予言していた。その言葉通りに、イスラエルもユダも滅んだ(戦争に負け、征服された)。人々は彼らの言葉に耳を傾けなかった、とヘブライ語聖書(ことに申命記的歴史と預言書自体)は主張している。つまり、ほとんどの預言者は、「真正」だった故に「失敗」したのだった。
それなのに、ヨナは「成功」する。「真正」の預言者なのに。これでは、「真正」性まで疑われてしまう。
ここから浮かび上がってくることは、預言者の語ることによって事態が変化することなど、ヘブライ語聖書は予想だにしていないということだ。「預言者は、何とかして、彼らの理想とする、ヤハウェ主義契約共同体を実現しようとしていた」、というロマンティックなイメージは成立しない。「滅びる」と予言した預言者は、実際に「滅びる」ことを確信し、期待していたに違いない。ヨナのように!
ヨナ書は、私たちの持つ預言者のイメージを打ち砕く。