2009年9月19日土曜日

聖霊降臨節第18主日

出エジプト記20:1〜17

言わずと知れた「十戒」である。「主の祈り」「使徒信条」と並んで、キリスト教の「3要文」と呼ばれ、「教理(信仰)問答」で解説を施される。キリスト教徒にとって、「倫理」の根幹となっている。

しかし、もうひとつの版が申命記5章に記されていることはあまり知られていない(知っている人も、あまり言及しない)。2つの版には微妙な違いがあり(ことに安息日の規定に関する部分)、言葉遣いから見て、申命記のものの方がオリジナルに近いと考えられている。

「『十戒』はあらゆる法律の基本である」として、その彫刻を裁判所玄関ホールに設置した判事がアラバマ州にいた。そんな昔のことではない。2003年のことである。当然、諤々の議論を呼び起こした。連邦裁判所は撤去を命令したが、宗教右派は(教派を超えて)反対し、撤去作業の日には座り込みの抗議行動までした。
撤去に反対した人たちは、この彫刻を設置した判事と価値観を共有している。「『十戒』こそ、神から与えられた法であり、すべての法の基礎となっているものである」と、彼らは考えている。
確かに、「殺してはならない」に始まる後半は、一般的な道徳観とさして変わらないことを言っている。それが、彼らの主張の根本にあるのだろう。
しかし、それは、この「十戒」が置かれている物語の文脈を無視し、結局のところ、「十戒」の独自性を(彼らの主張に反して)否定していることになるのではないかと思う。

出エジプト記の「十戒」は、エジプト脱出の後、シナイ山にたどり着いて与えられたと書かれている。「十戒」自体もそのことを強く意識していて、「わたしは……あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と言う(2節)。つまり、この「命令」は、「エジプトを脱出した人々」に向けて語られており、その人々が守るべきものとして示されているのだ。
申命記の「十戒」も、約束の地への侵入を目前にして、戒めが再提示され、勧告が語られる。エジプト脱出後生まれた「第2世代」に向かって、最初の命令の有効性を確認していると言える。
そうすると、「隣人」という言葉にも、キリスト教が後になって付加した「すべての人」という意味はなく、同じ共同体に属する人だけが考えられていることになるのではないか。「殺してはならない」のも、同じ共同体のメンバーだけに限られる。「博愛(友愛)」を命じる普遍的な「倫理的戒め」ではないのだ。

イエスは、「十戒」を守ることの意義を、極限まで徹底化していると言えるだろう。「隣人の家を欲してはならない」(17節)という戒めは徹底すれば、「持ち物を売り払い、貧しい人々に施」す(マタイ19:21)ことになるからだ。それは、イエスも認めるように「人間にできることではない」(26節)。
「何もかも捨てて(イエスに)従って」来たというペトロだが(27節)、それは、イエスの「十戒」解釈を矮小化する発言のように思える(イエスの言葉として、その報酬の豊かさ(28〜29節)を語らせたマタイも)。そして、このペトロの発言に即して、キリスト教会は「十戒」を個人化し、救済のために守るべき箇条としてきた。アラバマの判事も、宗教右派もその路線に従っている。

2009年9月8日火曜日

聖霊降臨節第17主日

創世記45:1〜15

ヨセフ物語(創37〜50章)の中、それまでは正体を隠し、エジプトの大臣として振る舞っていたヨセフが、その正体を兄弟たちに明かす場面。

父のことを慮るユダの言葉(44:18〜34)を聞いて感極まったヨセフは、「泣いて」身を明かす(2節)。この箇所の終わりでも、ベニヤミンをはじめ、兄弟たちを抱いて「泣い」ている(14〜15節)。ところが不思議なことに、兄弟たちは、ベニヤミンさえも、「泣いた」とは記されていない。書いていないだけで、彼らもヨセフと共に涙したと読むことは可能である。一方、書かれていないことに読者の注目が集まることも当然である。

ヨセフは、穀物を買いに来た兄弟たちを見た瞬間、彼らに気づいている(42:7)。それなのに、自分の身は隠した上で兄弟たちを尋問し、シメオンを人質に取る(24節)。再び穀物を買いに来た兄弟たちが約束通りベニヤミンを同行しているのを確認して(43:16)、彼らを自宅に招き、食事を振る舞う(16節)。しかし、銀の杯をベニヤミンの袋に戻し(44:2)、ベニヤミンを手許に置こうとする(17節)。
このようなヨセフの行動に接してきた兄弟たち(ベニヤミンを含めて)は、「驚いた」(3節)だろうし、神が計画していると言われても(5、8節)、簡単には信じることはできなかっただろう。しかもヨセフは、兄弟たちが自分を「売った」ことを、忘れずに付け加えている(4節)。ヨセフのように、「泣いて」抱き合うことができなかったとしても、不思議はない。

ヨセフは一連の行為を通して、兄弟たちを自分にひれ伏させ(37:7、9;42:6)、自分の意のままにしようとしていると読めないだろうか。父に当てた伝言に自分が「全エジプトの主」となっていることを含めているが、当然、それは、兄弟たちにも向けられた言葉であろう。家族を上げてエジプトに移住してきた際には、誰が「主」となるのかを、この伝言を通してはっきり予告しているのだ。ヨセフは、一連の行為によって、兄弟たちとの関係を決定的なものとして決着させようとしている。

福音書に語られている「赦し」と関連させて読めば、ヨセフの心の中に「赦し」があったとしても、それを利用して兄弟たちを支配しようとしたと読めるだろう。「赦し」は、赦す側の者を絶対的な優位に置くことができるのだから。

聖霊降臨節第16主日

エゼキエル書37:15〜28

エゼキエル書後半には、捕囚となっている人々に向けて語られた、回復の希望が記されている。36章はその序章となっており、罪は「清められ」(25節)、捕囚の民は故国に帰還し(24節)、そこでの繁栄が約束される(33〜34節)。しかし、それはあくまでも、ヤハウェの名誉回復が目的であり、イスラエルの復興が目的なのではない(32節)。ただ、そのことを通して、異邦人にも、ヤハウェが神とあがめられるようになる(23節)。
この序章は、続く各章を読み解くための鍵を提供している。

有名な「枯れた骨の復活」の預言(37:1〜14)に続いて語られるこの箇所では、南ユダと北イスラエルの「再統合」が告げられ、その国が「一人の王」によって統治されると語られる(22節)。
来るべき「再統合」されたイスラエルの王は、「ダビデ」と明示されている(24節)。その王の統治によって、ヤハウェの「掟を守り行う」ことが可能となるが(24節)、とりわけ、他の神を崇拝することがなくなると言われる(23節)。その結果、「約束の地」に定住し続けることができるとされる(25節)。
これらの言葉は、申命記の表現を彷彿とさせる(申11章参照)。そうすると、民の「真ん中」にあるヤハウェの「聖所」は、エルサレムということになるだろう。エゼキエルはこの後、文字通り国の「真ん中」に「聖所」がある復興されたイスラエルを思い描くことになる(45章以下)。

それにしても、「ダビデ」には言及するのに、ヘブライ語聖書ではそれと対になって登場する「エルサレム」は明言しないのはなぜだろう。エゼキエル書が申命記の語る選民思想と結びついているとすれば、他の「聖所」はあり得ない。事実、キュロスによって帰還を許可された人々は、エルサレム神殿の再建を行うし、エズラ記では、それこそが帰還の「目的」であるかのように語られている(3:10)。
「エルサレム」が言及されないのには、帰還が実現していないという事情も反映しているのだろう。あるいは、実際は前7世紀に書かれたにもかかわらず、カナン侵入前を装って記されている申命記が「(ヤハウェの)名を置くところ」(12:5)を明示しないのに倣ったのかもしれない。あるいは、明言しないことで、違う場所、例えば、捕囚の地での、共同体形成という可能性を担保したかったのかもしれない。

序章である36章によれば、ヤハウェは、自分の名誉回復を主たる目的としてイスラエルを復興する。「ダビデ」との関係は、申命記的歴史において、ヤハウェの名誉に関わるものとして描かれている。ヤハウェが「共にいた」おかげで、ダビデは、あらゆることに成功することができたのだった。
これに対し、エルサレムは、特別な地位を与えられた聖所であったにもかかわらず、時の為政者によって他の神のための祭壇が築かれたり(王上11:7、下21:4)、陥落の際には神殿の祭具が略奪されたりした(王下25:13以下)。ヤハウェの名誉が本当に回復するまで、「エルサレム」という場所の汚名は雪がれないと考えられたのだろうか。

エゼキエルの描く未来には、「民」の姿が見えてこない。部族名は記されるが(48章)、それは人間のつながりというよりは、歴史に書かれている往古の名前であるような印象を持つ。その点に関しては、37章で語られるイスラエルの「再統合」では、実際の人々が念頭にあるようにも思える。それでも、その回復を通してヤハウェが他の民にも認知されることが目的であることは、変わらない(28節)。