2009年12月13日日曜日

降誕前第2主日・待降節第3主日

イザヤ書40:1〜11

バビロニア捕囚からの解放を目前にして、バビロンで活動したと思われる無名の預言者(「第2イザヤ」と便宜上呼ばれる)の「召命」の記事。「裁き」を語るよう命じられている他の預言者(例:エレミヤ、1:10) とは異なり、「慰め」を語るよう命じられている。その言葉は、故国への帰還、ことにエルサレム復興の希望を主題としており、確かに、「慰め」を語っている。

預言者は、繰り返して、語るように命じられる(6、9節)。「神の言葉はとこしえに立つ」(8節)というのは、預言者の語る内容が、たとえ一見したところでは荒唐無稽に聞こえようと、必ず実現するということの主張であろう。ということは、捕囚にあった人々には帰還の希望はもはやなかったということだろうか。

帰還そのものは荒唐無稽ではないにしても、帰還を実現するために世界の様相まで変えられる(3〜4節)というのは、現代の読者には、奇想天外に聞こえる。第2イザヤの言葉には、このような表現が満ちている。「奇跡」としての解放・帰還を強調するために、世界の変革という奇跡も併せて語られているように思える。

「救い」の実現のためには世界・宇宙の有り様までも変えられるという考えは、この後、ダニエル書や新約書に受け継がれていく。しかし、これは、世界・宇宙を、自らにとって都合の良いもの、都合によって変更してもよいものと考える心的態度と一体だと言える。自尊感情から出発したものだろうが、劣等感の裏返しであることも否定できない。(降誕前第4主日の日課解説も参照

2009年12月5日土曜日

降誕前第3主日・待降節第2主日

エレミヤ書36:1〜10

エレミヤの言葉がどのようにして書き留められるに至ったか。エレミヤは公の場所で預言することを禁じられていた(5節)。そこで、書記バルクを呼び出して、口述筆記し(4節)、神殿で書き留めた言葉を読ませた(8節)。

日課として上げられているのはここまでであるが、この朗読を聞いた1人が「役人たち」にもこの言葉を聞かせるべきだと判断し、バルクに朗読を依頼する(15節)。彼らは、この言葉を王にも伝えるべきだと判断する(20節)一方、エレミヤとバルクに身を隠すよう勧める(19節)。
王はこの巻物を朗読させるが、読み進むにつれて、巻物を切り裂き、火にくべてしまう(23節)。その後、エレミヤは、さらに巻物を作成した(32節)。

その巻物に書かれていた言葉は、29節に要約されている。「バビロンの王が必ず来て、この国を滅ぼし、人も獣も絶滅させる。」
滅亡の預言は決して新しいものではない。しかし、その滅亡の危機が目前に迫り、現実味を帯びているとき、王がその言葉に聞き従うとは考えられない。ましてやエレミヤは、すでに公に語ることを禁じられている。エレミヤは「危険思想」の持ち主として、「公共の敵」に認定されていたのだ。
聞かれないことが予想されていたからこそ、「書き残す」という作業が行われた。今は聞き入れられなくても、後になって、エレミヤの語っていたことが真実であった、従って、エレミヤは真の預言者であったことが明らかになると信じたからこそ、その言葉が書き残されることになったのだ(申命記18:22)。

書き記されたが、反故にされた「預言書」はどれほど存在したことだろう。それと同時に、埋もれていたが、「再発見」された書物はどれほど存在することだろう。この事実が表すのは、預言者に代表される、政治的宗教的「意見」に対する姿勢は、一定不変のものではなく、時代が変われば、より正確には、時代の要請が変われば、容易に変わるものなのだということである。
聖書に書かれている言葉をどう取り扱うかということは、焦眉の課題である。読み方によっては、敵意と反目を煽ることもできれば、排除と疎外を正当化することもできる。どのような読み方も、「要請」があって行われる、もっと身も蓋もない表現を使えば、「目的」のために行われるのだ。聖書の読みに接するとき、常に、その読みを生み出したもの、あるいは、その読みが導き行こうとする方向に敏感でありたい。