2009年7月5日日曜日

聖霊降臨節第8主日

エレミヤ書7:1〜7

 7章全体は、「神殿の門」で語るようにといわれた言葉を記すので、「神殿説教」と呼ばれている。同様の内容は26章にも記されているが、そちらは、7:27以下の「彼らは呼びかけても答えない」という予測が当たっていたことを実証する物語を含んでいる(7節以下)。

 「神殿説教」は、神への信仰は祭儀が中心でもなく、国家としての「護持」(=「神殿」4節)が問題なのでもないことを語る。こう聞くと、個人主義の時代に生きる私たちは「信仰は心の問題」と合点しがちだが、エレミヤは申命記法の遵守を要求している(5〜6節。「わたしが命じる道」23節)。申命記では、共同体の倫理・正義を実現することが中心的なテーマとなっている。その根幹が、「唯一の神ヤハウェ」である(申命記6:4)。共同体の存立が倫理と正義の実現にかかっている。実現できれば、「約束の地」に住み続けることができる(7節)、つまり、共同体の存続が可能となるというメッセージは、至極当然のこととして聞こえる。

 エレミヤは他の倫理が「民」の生活の基盤となることを好まない(「バアル」に代表される。9節)。あるいは、それも申命記法に含まれていることであるが、祭儀や神殿の存在という、一面だけが強調されることも認めない(4節)。申命記法が理想とする、祭政一致、「神王イデオロギー」に基づいた共同体のあり方のみを是としている。この点で、エレミヤは、紛れもなく「原理主義者」である。

 ただ、エレミヤは、いわゆる「原理主義者」と、どこかが異なるように感じる。「ダビデ・エルサレム原理主義者」であるイザヤとは決定的に違う。その違いは、エレミヤが自らの原理主義的信仰に疑問を抱き、答えを求めて苦闘していること(いわゆる「告白」に記されている。12:1〜6、15:10〜21、17:14〜18、20:7〜18)と無関係ではないだろう。また、エレミヤが、原理主義的主張をしていても、それを、権力をもって、あるいは暴力的に強制しようとしなかった(実際、できなかった)、むしろ、その主張に共感する人はあっても、常に権力者から迫害されていたこととも関係しているだろう。つまり彼は、「失敗した原理主義者」なのだ。

 こうして読者は、エレミヤの苦悩と嘆き、憂国の思いだけを受け取ることになる。そして、申命記法に記された共同体正義の要求は、エレミヤという存在(「キャラクター」)を通して、普遍的な響きを持つことになる。