2009年7月30日木曜日

聖霊降臨節第13主日

創世記24:62〜67

アブラハムがイサクのために、ハランから妻を迎える長い物語を締めくくる部分。この物語を長くしているのは、繰り返し(=「僕」による、そこまでの物語の要約。34〜48節)が含まれていることによるのだが、興味深いことに、66節は、「自分が成し遂げたことをすべてイサクに報告した」と、ここまでの物語の繰り返しを拒否する。こちらの方が、ヘブライ語聖書では一般的な物語の進め方である。

イサクは、母サラに「代わる慰め」として、リベカを妻としたように、新共同訳の訳では読める(67節)。原文ではもう少し微妙なニュアンスで、「母サラのための喪を明けた」とも読める。こう読むと、リベカとの結婚が新しい世代の始まりを告げるものであると解釈できるし、このエピソードの直後、25章に入ってアブラハムが死ぬことも納得できる(研究者の中には、24章のエピソードにおいて、元来は、「代替わり」は起こっていたはずだとする者もある)。

この日曜日の「家族」というテーマに関連させるなら、小さいが、興味深い記述がある。それは、イサクが「ベエル・ラハイ・ロイから帰ったところであった」というものである(62節)。ベエル・ラハイ・ロイは、創世記の物語においては、ハガルにヤハウェの使いが現れた場所であり(16:14)、従って、ハガル—イシュマエルとの結びつきが深い。イサクがベエル・ラハイ・ロイに行っていたということは、イシュマエルに、あるいは、ハガルに、あるいはその両者に会っていたということである。
2組の母—子の間には強烈な葛藤があったが、それは、母同士のもの、あるいは、一方的にサラからハガル—イシュマエルに対する嫌悪であったかもしれない。イサクは、母の世代の衝突からは自由で、兄イシュマエルとは良好な関係を持っていたのかもしれない。そして、母親の死(23:1)をきっかけに、彼らとの行き来を、気兼ねなくできるようになっていたのかもしれない。
もちろん、物語はそのことについて何も語らない。なぜなら、物語(語り手)にとっては、「イサク独子体制」を作り上げることが最重要課題であり、イサクと他の息子たちの分離こそが、イサクの独占相続を保証するものだったからである(25:5〜6)。

アブラハム物語においてはフラットな役割しか与えられず、続くヤコブ物語においても臨終の「祝福」(相続権の確認)のためにだけ存在するようなイサクであるが、物語の細かな記述から、他の「ラウンド」で主要な登場人物たちの陰にあってにせよ、キャラクターを再構成することは可能なのではないか。

この日の福音書では、イエスに従う者たちが、イエスの「母、兄弟、姉妹」と呼ばれている(マタイによる福音書12:50。「父」がないことに注目!)。本当の「家族」とは必ずしも「血縁」ではないのだという、ラディカルな発言である。この発言は、「アブラハム家」のあり方に対する批判としても読むことができる。
そして、家族「政治」の中で、相続人であるにもかかわらず受け身の被害者であるという逆説的な存在であるイサクであるが、実母や妻、そして、腹違いの兄やその母とのつながりを感じさせる記述がわずかながらでも存在しているということで、アブラハム—イサクの排他的「祝福の相続」を主張したい物語を解体する鍵を提示している。イサクこそ、本当の「家族」になれなかった「血縁」において人間的なつながりを表す(唯一の)メンバーなのだから。

2009年7月28日火曜日

聖霊降臨節第12主日

エレミヤ書20:7〜13

いわゆるエレミヤの「告白」の1つ。どの箇所にどれだけ「告白」があるのかは、研究者の間に議論がある。新共同訳は、ここにだけ「告白」という見出しを付けている。
第8主日の解説でも書いたが、エレミヤは、極めて原理主義的な立場にありながら、自らの預言者としての「召命」を問い、そのことを通して、メッセージに普遍性を付加している。その装置が「告白」なのである。

「告白」といわれる部分は、全体として見るなら、「個人の嘆きの詩」に分類される詩であり、一般的な嘆きを述べている。例えば、「わたしの味方だった者も皆/わたしがつまずくのを待ち構えている」(10節)という表現に類するものは、詩編の中に見いだすことができる(例えば、41:10)。さらに、詩の最後に賛美の言葉が記されているのも(13節)、「個人の嘆きの詩」との類似性を思わせる。
この詩をエレミヤに結びつけるのは、「恐怖が四方から迫る」というエレミヤが語ったメッセージの要約が引用されていること(8:25参照)、そして、ヤハウェを「惑わす者」と呼んで、自分の敵対者としている点である(7節)。

エレミヤは、ヤハウェから言葉を受けた上は語らずにはいられないと言う(9節)。しかも、それは、「不正」や「暴力」を告発する言葉である(8節)。これだけなら、他の預言者と変わらない。しかし、他の預言者たちがそのメッセージ故に「迫害」を受けることについての感情を述べないのに対し、エレミヤは苦情を申し立てる。自分が真実(「ヤハウェの言葉」)だと思うことを語っているのに理解されないどころか、かえって苦しい目に合わされる。これを理不尽と感じる、いわば「普通」の感覚を述べている。これが重要である。エレミヤの語る言葉が「普通の感覚」を持つ人から述べられていると感じさせることで、その言葉には説得力が増すことになるからである。

預言者はそれぞれ、自分の語ることを正当なことだと証明しようとした。それが「召命」の物語である(イザヤ書6章、アモス書7:10〜17)エレミヤ書にも「召命」の物語があるが(1章)、エレミヤ書の用意する装置は、エレミヤの言葉が受け入れられないという厳しい現実を逆手にとって、それを説得力に転換しようとするものなのだ。ここに、エレミヤ書の特色があると言っていいだろう。

2009年7月19日日曜日

聖霊降臨節第11主日

ヨナ書3:1〜5

ヤハウェの命から逃げようとした(1章)ヨナだが、大魚の腹で過ごした(2章)後は、命じられたとおり、ニネベに行き、審判を宣告する(4節)。すると、人々は、ヨナの言うことを聴き、「神を信じ」た(5節)。結果どうなるか。
「神は、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた」(10節)。

ヨナは、ヘブライ語聖書で唯一と言っていいほど、その預言の内容が受け入れられた人物である。「滅びる」ということを語った預言者は少なくない(イザヤ、アモス、ホセア……)が、まともに信じ、「悪の道を離れ」る人があったのは珍しい。

ところが、ここに、奇妙なねじれが起きてくる。
ヘブライ語聖書において、預言者の語る内容に傾聴すべきかどうかの判断は、1つしかない(1箇所にしか書かれていない)。申命記18:21〜22である。

あなたは心の中で、「どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか」と言うであろう。その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。

「語ったことが実現する」。この単純な基準だけが、「真正の」預言者と「偽」預言者を区別するものである。
この基準そのものにも、問題はある。「今」、語られている時点で、ことが起こる前に、本物かどうかを知りたいのに、本物で「あった」ことが分かるのはことが起こってからである。これでは、実際は役に立たない。
また、通常言われるような、「預言」と「予言」の区別も、実は存在していないことになる。

しかし、ヨナの場合は、問題は別のところにある。
ヨナは、神が語った言葉を語ったのである。その意味では、「真正の」預言者である。しかし、神が、ニネベの人々の態度を見て、ヨナに語らせた「災いをくだすのをやめ」たのなら、ヨナの語ったことは起こらず、ヨナは「偽」預言者だということになる。ヨナにはこれが不服で、神の「憐れみ深さ」をたたえる定型句を用いて、神を糾弾する(4:2。出エジプト記34:6参照)。
ヘブライ語聖書にその言葉が保存されている預言者は皆、その語った言葉が実現した、実現したということで「真正」性が証明された者たちである。その多くは、イスラエルやユダの滅亡を予言していた。その言葉通りに、イスラエルもユダも滅んだ(戦争に負け、征服された)。人々は彼らの言葉に耳を傾けなかった、とヘブライ語聖書(ことに申命記的歴史と預言書自体)は主張している。つまり、ほとんどの預言者は、「真正」だった故に「失敗」したのだった。
それなのに、ヨナは「成功」する。「真正」の預言者なのに。これでは、「真正」性まで疑われてしまう。

ここから浮かび上がってくることは、預言者の語ることによって事態が変化することなど、ヘブライ語聖書は予想だにしていないということだ。「預言者は、何とかして、彼らの理想とする、ヤハウェ主義契約共同体を実現しようとしていた」、というロマンティックなイメージは成立しない。「滅びる」と予言した預言者は、実際に「滅びる」ことを確信し、期待していたに違いない。ヨナのように!
ヨナ書は、私たちの持つ預言者のイメージを打ち砕く。

2009年7月14日火曜日

聖霊降臨節第10主日

ホセア書6:1〜6

ホセアの語る神は「人間くさい」。怒り、嘆き、喜び……あらゆる「人間的感情」が、ホセア書の中には渦巻いている。そもそも、「ゴメル」を巡る問題をきっかけに語り始められるこの書が人間関係に基づく言葉(「夫」「妻」など)や感情を表す言葉を用いるのは当然だと言えば、そうだろう。

6章は、ヤハウェのもとに「帰ろう」という言葉から始まる(1節)。これはヤハウェが引用しているもので、「いやし」や「生きる」という期待をして、人々が発言している(2節)。
その期待に、ヤハウェは反応する。「わたしはあなたに対して何をしようか」(4節。新共同訳「わたしはお前をどうしたらよいのか」)と自問した結論は、期待に反して審判をもたらすというものだった(5節。新共同訳「わたしの行う裁きは光のように現れる」はLXXに基づく読み替え)。

奇妙に思われるが、基本的には人間の行動や思惑に対して「反応する」というのが、預言書における神ヤハウェの行動パターンである。ホセア書でも例外ではない。
ヘブライ語聖書において神は、創世記から律法の付与までは、主導権をもって行動していた。しかし、律法によって、状況は一変する。神は、「応報の原則」の中に、自分を押し込めることになった。預言書が前提としているのも、この「律法と応報」における神である。

ところが、「立ち帰る」という言葉を巡って、期待する側と期待される側(神)の間に解釈の相違がある。期待する側の考える内容は明らかではないが、ヤハウェの考える内容は明らかにされる(6節)。ヤハウェは、「愛」(ヘブライ語「ヘセド」=契約に対する誠実さ)を求める。ヘブライ語聖書では、「律法の遵守」と同義語である。もちろん、「律法」には「いけにえ」や「焼き尽くす献げ物」も含まれるが、それだけでは、ヤハウェは満足しない。「完全な遵守」が永続的に行われることを要求する。

このことは、ホセア書の神が機械的な応報では満足しないということを表している。「神を知ること」を求めていることからも伺われる。「神を知る」とは、「神との出会いを通して、神とはこのような存在であることを体験的に悟る」ほどの意味であろうか。「知ること」と訳されている名詞da'athは、動詞y-d-'から導き出されたものだが、この動詞は親密な人間関係をも意味する(創4:1)。このような要求をする神は、まことに「人間くさい」(もちろん、これは、神は語る際に、そのような語彙とレトリックが採用されているということなのだが)。

2009年7月10日金曜日

聖霊降臨節第9主日

創世記21:(1〜8)9〜21

アブラハムの第2夫人、ハガルの追放の物語。16章にも同じ主題を扱った物語があり、「資料仮説」の根拠である「重複」であるとされる。しかし、単純に「重複」と考えるには、相違点が多い(詳しくは、拙著『アブラハム物語を読む』304〜306、378〜320頁を参照されたい)。

サラは、わずかであってもイシュマエルがアブラハムの財産を相続することをよしとしない(10節)。そのために、自分が見たことを、あえてアブラハムに話さない。
新共同訳は「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見」たと訳しているが(9節)、この本文には問題がある。第1に「イサクを」という目的語はない(七十人訳から補っている)。第2に、「からかう」とされている動詞ts-ch-qのピエル語幹の意味をどのように考えるかである。これには、性的な意味合いも含まれうる(創世記26:8、39:14)。物語の進行から計算して、15〜17歳になっていたイシュマエルが、14歳年下のイサクと、成長という点で圧倒的な差を持っていたとしても不思議ではない。
皮肉なことに、それを認めたくないサラが、真っ先にそのことに気がついた。結婚して子どもが生まれるようなことがあれば、イシュマエルの地位は確立する。その前に行動したのだ。

アブラハムは逡巡する(11節)。せっかくここまで育ってきた長男を追放するのは、家系の存続を危うくすることだと考えたのだろう。ところが、神は、サラの言うことを受け入れ、イシュマエルとハガルを追放せよと命じる(12節)。
これが、ユダヤ教・キリスト教が信じる「神」なのか。弱い立場の者を保護し、助けるのではなく、家父長制の存続のために、より権力を有する者の主張を是認するというのが、「神」のとるべき行動なのか。ことにキリスト教の教える「神」と矛盾するのではないか。Ph.トリブルの問題提起(『旧約聖書の悲しみの女性たち』)は、正しく、有効である。

問題は「アブラハムの子孫」を自認する人々が、これをどう解釈するかであろう。自分たちの「信仰の継承」を理由に、アブラハムとそして、この「神」の行動を容認してしまうならば(代表格はパウロである。ガラテヤ4:21〜31)、それは、自らが説き、信じている教えが、実はその言葉とは裏腹に、自分たちだけの「救い」を保証し、そのためには他者の排除をもいとわないものであることを表明することになるのである。

2009年7月5日日曜日

聖霊降臨節第8主日

エレミヤ書7:1〜7

 7章全体は、「神殿の門」で語るようにといわれた言葉を記すので、「神殿説教」と呼ばれている。同様の内容は26章にも記されているが、そちらは、7:27以下の「彼らは呼びかけても答えない」という予測が当たっていたことを実証する物語を含んでいる(7節以下)。

 「神殿説教」は、神への信仰は祭儀が中心でもなく、国家としての「護持」(=「神殿」4節)が問題なのでもないことを語る。こう聞くと、個人主義の時代に生きる私たちは「信仰は心の問題」と合点しがちだが、エレミヤは申命記法の遵守を要求している(5〜6節。「わたしが命じる道」23節)。申命記では、共同体の倫理・正義を実現することが中心的なテーマとなっている。その根幹が、「唯一の神ヤハウェ」である(申命記6:4)。共同体の存立が倫理と正義の実現にかかっている。実現できれば、「約束の地」に住み続けることができる(7節)、つまり、共同体の存続が可能となるというメッセージは、至極当然のこととして聞こえる。

 エレミヤは他の倫理が「民」の生活の基盤となることを好まない(「バアル」に代表される。9節)。あるいは、それも申命記法に含まれていることであるが、祭儀や神殿の存在という、一面だけが強調されることも認めない(4節)。申命記法が理想とする、祭政一致、「神王イデオロギー」に基づいた共同体のあり方のみを是としている。この点で、エレミヤは、紛れもなく「原理主義者」である。

 ただ、エレミヤは、いわゆる「原理主義者」と、どこかが異なるように感じる。「ダビデ・エルサレム原理主義者」であるイザヤとは決定的に違う。その違いは、エレミヤが自らの原理主義的信仰に疑問を抱き、答えを求めて苦闘していること(いわゆる「告白」に記されている。12:1〜6、15:10〜21、17:14〜18、20:7〜18)と無関係ではないだろう。また、エレミヤが、原理主義的主張をしていても、それを、権力をもって、あるいは暴力的に強制しようとしなかった(実際、できなかった)、むしろ、その主張に共感する人はあっても、常に権力者から迫害されていたこととも関係しているだろう。つまり彼は、「失敗した原理主義者」なのだ。

 こうして読者は、エレミヤの苦悩と嘆き、憂国の思いだけを受け取ることになる。そして、申命記法に記された共同体正義の要求は、エレミヤという存在(「キャラクター」)を通して、普遍的な響きを持つことになる。

2009年7月2日木曜日

聖霊降臨節第7主日

歴代誌下6:12〜21

 神殿奉献の際のソロモンの祈りとして記されている。同じ祈りは列王記上8:22以下(この日の日課と同じ部分なら30節まで)に記されている。

 歴代誌はサムエル記・列王記を底本に、独自の資料を加え、かなりの編集を施して書かれた。この部分は、列王記の記述をほとんどそのまま引用している。
 列王記におけるソロモンの祈りは、申命記的歴史家が時代の分かれ目に置いている「演説」の1つであると考えられる(他に、ヨシュア記23章、サムエル記上12章、下7章など)。神殿が建設され、サムエル記下7:13に記されている、「ダビデの息子による神殿建設」という「預言」が実現したことをもって、時代の分かれ目とされている。それはまた、「ダビデの王朝」という「預言」(サムエル記下7:11)が実現した瞬間でもあった。
 歴代誌は、列王記が記す王位をめぐる宮廷の紛争を省き、「禅譲」された王としてソロモンを描く。そしてそのソロモンは、ダビデがその建築のために周到に用意した神殿を、実際に建築させたものとして、奉献の祈りを祈る。それは、何よりも、ダビデ王朝成立と、自己の正当性の宣言であった(15〜16節)。
 さらに、ソロモンは、「罪の赦し」を願う(21節)。この後、長い祈りは、この点からだけ語られる。勿論、この後の歴史を、ユダ王国の滅亡という最期までも知っている語り手は、神の「裁き」としての国家滅亡という神学的答えから語っているのだが、読者に、「祈りを聞き届ける神」、とりわけ、祈りに応えて「赦す神」を印象づけるために、このように、ソロモンに語らせるのだ。