2010年1月19日火曜日

降誕節第5主日

申命記30:11〜15

申命記法の締めくくりに置かれたこの部分は、いくつか、現代における宗教を考えるきっかけを与えてくれる。

1 あれかこれか
15節は、「命と幸い」と「死と災い」の二分法を提示する。申命記によれば、この書に記された、共同体とその中で生きるためのルール(=律法)を守るかどうかが、この2つを分けることになる。
このような「あれかこれか」は、宗教が変わることなく問うものである。「信じる/信じない」、「戒律を守る/守らない」、「活動に参加する/参加しない」……。これらの「二者択一」のすべてに対して、求められている選択肢を選び取り続けなければ、「救われない」のだ。そして、その基準は、求め続ける側にある。これが宗教の「胡散臭さ」を作り出している。
宗教の存続を目的とする限り、物心両面のコミットを求め続ける。そして、存続しなければ、その宗教は「使命」を果たすことはできない。とすれば、宗教は「二者択一」をそのメンバーに求め続けることになるだろう。
「二者択一」を脱却した宗教は可能なのだろうか。判断の基準を自らのうちに持たない宗教などというのは、絶対的な矛盾なのだろうか。

2 聖典と解釈
申命記は、「戒め」が「ごく近くにあり、あなたの口と心にある」と言う(14節)。一見したところ、宗教・信仰の「個人化」を言っているようだが、申命記は全体として見た場合、共同体の存在を前提としており、その存続のための努力を高く評価している。
規定の実施には、必ず、「グレーゾーン」が存在し、従って、解釈が必要となる。この場合には認められるが、この場合には認められないというように。ユダヤ教において、律法の実施に関する議論が積み重ねられ、『タルムード』と呼ばれる集成が作られたことは、「解釈」が絶対不可欠であることを示している。そして、『タルムード』やその基となった『ミシュナ』に書かれているように、「解釈」において完全な合致はあり得ない。常に複数の「解釈」が、それも同等の蓋然性をもって存在する。
ところが、申命記は、そのような曖昧さを許容しない。「言葉」が書かれているのだから、それを字義通りに実行できるはずだと言うのだ。今日「原理主義」と呼ばれている宗教の潮流と同じ主張である。
しかし、上にも書いたとおり、「解釈」は不可避なのだから、問題となるのは、誰が正しい「解釈」をするのか、「解釈」の権威は誰にあるのか、ということになる。こうして、「書いてあるとおり」の主張は、皮肉なことに、様々な分派を生み出すことになる。そして、「書いてあるとおり」と主張している人々は、その主張に反して、かなりの「解釈」作業をしている。
これらの「解釈」の共存は可能なのか、その「解釈」間の対話は可能なのか。

2010年1月16日土曜日

降誕節第4主日

エレミヤ書1:4~10

12月からクリスマス、年末年始の忙しさにかまけて、更新を怠っていました。申し訳ありません。

エレミヤの「召命」の記事として、よく知られている箇所である。
預言者の「召命」記事全般に共通して言えることであるが、この記事は、召命の出来事の「記録」ではない。預言者が活動を始めてある程度の時間が経った後、必要があって語られたものである(そのきっかけは様々であろう)。従って、そこには「反省」が加えられており、表現も考慮され、練られたものとなっている。
このエレミヤ書の記事の場合、書かれた時期については議論があろうが、私には、エレミヤ書の冒頭に、序文として、エレミヤ書の内容を要約し、「予告」するために置かれたものと考えると納得できる。つまり、エレミヤ書編集の最終段階で書かれたもの、従って、エレミヤ個人の体験とは無関係なものだということである(従って、この記事を根拠にエレミヤの活動年を計算することには無理があろう)。

エレミヤとモーセの間には、その記述が類似しているという指摘が古くからある(例えば、召命に対する「ためらい」など。6節、出4:10参照)。エレミヤが申命記に記された「来るべき預言者」(18:15)として描かれていると考えられてきたが、研究者の中には、エレミヤ書におけるエレミヤ像が、五書におけるモーセ像の形成に影響を与えたと考える者もあり、エレミヤ書と申命記との関係を考えるなら、この推測も妥当性があるように思われる。

この考え方に立つなら、エレミヤの活動は困難な状況(8節)の中で行われたものであったという理解が、また、それにもかかわらず、「真正な預言者」であるとの意識(9節)の下に行われていた(少なくとも、エレミヤに共感した人々にはそう受け止められたという方が正しい)という理解が、この「召命」の記事に書かれているというように読めるだろう。

「召命」の体験を後に説明する、ことによると別の人の説明であるという点では、使徒書日課も福音書日課も同じであろう。パウロの「転向」を説明するにはこれほどの劇的な体験を用意する必要があったということだし、最初の「使徒」たちがイエスの活動の最初からイエスと行動を共にしていたことを主張する必要があったということである。彼らを「正統」とするための物語であるが、私たちも、自らを「正統」と主張するための物語を必要としているのではないか。それは、何のために、どのように行われるのだろうか。