申命記8:1〜6
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(3節)は、よく知られた箇所である。知られているのは福音書でイエスが引用しているからであるが、それゆえに、教会暦=聖書日課では、次週(復活前第6、四旬節第1主日)に朗読されることが多い。
申命記は、「約束の地」に入る直前にモーセが勧告する形で書かれている。8章では、「40年の荒れ野の旅」が、民が神の「戒めを守るかどうかを知」るための、いわば、試験期間であり、「訓練」期間であったという意義が語られる(2、5節)。そして、「着物は古びず、足が晴れることもなかった」と、この間もヤハウェの守りがあったことを強調する(4節)。これは、「約束の地」でヤハウェの「戒め」を守らなければならないと命じる根拠となっている。
また、その地が以下に素晴らしい地であるかが強調される(7-10節)。これは、荒れ地での旅が厳しかったことの裏返しであるが、期待も抱かせる。
一方、日課の後には、「戒めと掟」を守らないと「滅びる」という「警告」(新共同訳の小見出し)が記されているが(11-20節)、この「アメとムチ」は申命記の基本的な方法である(例えば、28章)。
「神に従えば豊かに報いられる」という命題が真だとすれば、その対偶「不運に見舞われているのは、神に従っていないからだ」も真となる。
この考え方はどれほど私たちに染みついていることか。信仰の有る無しにかかわらず、あるいは、どのような信仰を持っているかにかかわらず。先週、先々週と日課に選ばれていたヨブ記はこの考え方を持つために苦しむヨブと、同じ考え方からヨブを非難する友人たちの対話が主であった。そして、最後に呼び出された神は、「人間の思い出は神の計画は理解できない」と、ヘブライ語聖書で主流である考え方(そして、それは私たちの考え方でもある)に疑問を突きつける。
この幸せ/苦境は神の「戒め」を守ってきた/こなかった(倫理的な生活を送ってきた/こなかった)からという考えから解放されることは、私たちを非・倫理的な生き方に向かわせるのだろうか。