2016年1月16日土曜日

D年降誕節第6主日(復活前第8主日)

ヨブ記23:1〜10

珍しいことに、ヘブライ語聖書日課が、前週からの続きとなっている。
エリファズの「説得」に対するヨブの反論が、23章の主眼である。ヨブは、神が自分の訴えを聞いてくれさえすれば、自分の潔白が認められると主張する(7、10節)。問題は、その神に会うことができないことなのだ(3〜4、8〜9節)。
ここに、ヨブ記が「現代的」だとされるひとつの理由がある。現代は「神なき世界」、「神を必要としない社会」であるが、ヨブは、(著作の年代は明らかでないものの)どのような場面でも神の存在を前提としていた古代において、このような問いを発する。
天上界におけるこの物語の発端(1〜2章)はあくまで登場人物たちには隠されており(読者には明らかにされているので、「劇的アイロニー」が成立している)、登場人物、とりわけ、不運を嘆くヨブには、自分の不運の理由が分からない。友人たちは、それがヨブの「悪」に起因するとするが、ヨブは納得できず、反論を重ねている。もし自分の潔白を認めるものがあるとすればそれは神であるとは信じているものの、その神を見いだせないと嘆いているのだ。
このディレンマこそ、今も、ヨブ記が苦しみの時に読まれる理由であろうし、ヨブ記を読む人が感じている感情であろう。永遠の超越者は、永遠に沈黙している。
では、信じる者は、この永遠の沈黙の前に、あるいは、その中で、どのようにすればいいのか。「摂理」というキリスト教の信仰箇条を持ち出すことは、多分、安易に過ぎるだろう。神の沈黙にもかかわらず、私たちは最善(と思われる道を選んで、そのために力)を尽くすしかない。現代的な意味では、ほとんど「無神論」にも近い主張が、ヨブ記にはあるように思える。