「第2イザヤ」と呼ばれる、紀元前6世紀にバビロンで活躍した無名の預言者の言葉。
1〜4節は、聖書学では、「僕の歌」の1つとされる(他は、49:1〜6、50:4〜9、52:13〜53:12)。これらによって第2イザヤの民族主義が普遍主義へと「緩和」されたとするのが、定説とされてきた。
しかし、第2イザヤには「僕」という語がこれら以外にも用いられており、これらだけを特別視することは難しい。また、ダビデとシオンへの関心、天地創造と出エジプトの神としてのヤハウェ(例えば、5節)など、民族主義的な主張は、「僕の歌」の存在によっても変わらないと考えられる。
一読して、この箇所が「裁き(ミシュパート)」に関心があることが分かる。1、3、4節にこの語が繰り返されている。この箇所では「教え(トーラー)」(4節)、「恵み(ツェデク)」や「契約(ベリート)」(6節)と結びつけられており、ヘブライ語聖書の伝統の中に位置づけられる。
不思議なのは、2〜3節の記述である。その「声を聞こえさせない」ことと「裁き」とは相いれない。また、3節の隠喩は、一般的に、(社会的)弱者への配慮を意味すると考えられているが、それを確信させる要素はない。ただ、ツェデクやトーラーを、申命記的な弱者への配慮と結びつけることは可能である(申24:17〜18参照)。だとすると、「僕」は、ヘブライ語聖書、とくに申命記の思い描く「理想のイスラエル」を実現するものと考えられる。
聖書日課では、イエスの「預言」と解釈されて、福音書と結びつけられている。ことに、この僕の上にヤハウェの「霊(ルーアハ)」が置かれていることが、イエスの上に「"霊"が鳩のように天から降って、とどま」ったことと関連させられている(ヨハ1:32)。