2016年1月16日土曜日

D年降誕節第5主日(復活前第9主日)

ヨブ記22:11〜28

日本キリスト教団が採用している〈4年サイクル聖書日課〉では、降誕節の最後3週は、以前の教会暦では「受難前節」と呼ばれる時期と重なっており、実質的に「復活前節」に入る。キリストの生涯が主題となっており、順に、「教え」「いやし」「奇跡」に関する箇所が読まれる。

ヨブ記22章は、ヨブと友人たちの議論の第3ラウンドを開始する、テマン人エリファズの発話である。
「神に従い、神と和解しなさい」(21節)、また、「(神の)教えを受け/その言葉を心に納めなさい」(22節)と教え、そうすれば、ヨブの行うことは「成就する」と勧める(28節)。典型的に「応報思想」的な神観、信仰観が言われている。
私は、この「日常的な感覚」が間違っているとは思わない。しかし、これはひとつ間違えば、苦境にある人、思い通りにならないことを抱えている人が皆、「悪」を行ったとはまでは言えないものの、神の「教え」どおりに生きてこなかったことを主張するものになりかねない。「生きてこなかった」どころか、ひとつの過ちですら、「因果応報」の根拠にされてしまう。
日課に選ばれている箇所の直前で、エリファズはヨブの「悪」を指摘する(5〜9節)。だからこそ、今のヨブの苦しみは当然のことだと言う(10節)。ヨブ記の読者は、このエリファズの主張が誤りであることを知っている。ヨブ記は、その冒頭で、ヨブがいかに「無垢な正しい人」であったかを語り(1:1)、ヨブの不幸が単に神とサタンの「賭け」に起因することを伝えていた(1:11、2:5)。エリファズは、上に述べたような、「応報」的な発想に基づいて眼前のヨブの不運を解釈したに過ぎないことが分かる。これが、使徒書日課のヨハネの手紙一が繰り返し勧めるような、「互いに愛し合う」掟とは大きく異なる姿勢であるとは、多くの人が認めるところであろう。
しかし、ヨブに対する自分の評価が間違っていないことを証明するために「賭け」に乗るような神と和解してもいいのだろうか。その「教え」に従うことは、尋常なことなのだろうか。詩編125は「ヤハウェに依り頼む人は……揺らぐこと」がないと歌うが、この神は、自分に依り頼むヨブを、サタンの自由に委ねたのではなかったか。
ヨブ記は危険な「知恵」の書である。私たちの人生について、先人たちが考え、教えてきたことは、結局通用しないと教えているようにも読めるし、だから、何をするか分からない「全能」の神を恐れる(文字通り)ことを勧めているようにも読める。少なくとも、エリファズの言うような簡単な「人生観」は、もはや有効ではないことを、ヨブ記の読者は知るだろう。