2009年11月10日火曜日

降誕前第4主日・待降節第1主日

イザヤ書51:4〜11

「第2イザヤ」と呼ばれる、紀元前6世紀、捕囚の地バビロンで活躍した預言者の言葉。
この語り手は、バビロニアの天地創造神話(9節)、出エジプトの物語(10節)を下敷きにしながら、捕囚からの帰還を語る(11節)。その際、天地は新しい様相になり(6節。40:3〜4参照)、世界の人々はヤハウェを「待ち望む」ようになるという(5節)。イスラエルという特定の民の運命と宇宙や世界の姿とを結びつける、壮大な語りを持っている。これは、黙示文学に受け継がれ、新約の思想へと結びついていく(福音書、使徒書日課参照)。

しかし、この結びつきが表している自己理解は、かなりインフレを起こしてはいないだろうか。自分たちが全世界の命運を握るほどの存在であり、自分たちのためにはヤハウェ(捕囚を経て、「唯一神」であると認識されるようになった)が宇宙のありさまを変えるほどの存在であるというのは、誇大妄想的である。
しかもその認識は、自分たちが実は弱小であるという現実(申命記7:7参照)の認識の裏返しとして生まれてきたと思われる。ヘブライ語聖書の多くの部分が、バビロニアでの捕囚体験を元に、それに対する何らかの説明として書かれたことは、覚えられてしかるべきであろう。

一方、神の差配が選ばれた民(ないしは個人)と深く関係しているというのは、「信仰」と呼ばれる認識において、極めて重要な要素である。このような認識は、例えば、"Jesus Loves Me"(『讃美歌21』484)という賛美歌に見ることができる。これなしには、「信仰」は、信じるものを活かす原理、その根拠を与えるものとはなり得ない。問題は、この認識がどれほど「自己目的的」であるかという点であろう。
この認識(「選民思想」と呼んでいいかもしれない)で、キリスト教はかなり大きな過ちを犯してきたし、今も、その危うさはなくなっていない。むしろ、「信仰」の本質に関わる部分であるだけに、この問題から逃れることはできないと言えるだろう。自らの「信仰」にこのような問題が横たわっていることを認識すること、それが求められているように思われる。