2009年12月5日土曜日

降誕前第3主日・待降節第2主日

エレミヤ書36:1〜10

エレミヤの言葉がどのようにして書き留められるに至ったか。エレミヤは公の場所で預言することを禁じられていた(5節)。そこで、書記バルクを呼び出して、口述筆記し(4節)、神殿で書き留めた言葉を読ませた(8節)。

日課として上げられているのはここまでであるが、この朗読を聞いた1人が「役人たち」にもこの言葉を聞かせるべきだと判断し、バルクに朗読を依頼する(15節)。彼らは、この言葉を王にも伝えるべきだと判断する(20節)一方、エレミヤとバルクに身を隠すよう勧める(19節)。
王はこの巻物を朗読させるが、読み進むにつれて、巻物を切り裂き、火にくべてしまう(23節)。その後、エレミヤは、さらに巻物を作成した(32節)。

その巻物に書かれていた言葉は、29節に要約されている。「バビロンの王が必ず来て、この国を滅ぼし、人も獣も絶滅させる。」
滅亡の預言は決して新しいものではない。しかし、その滅亡の危機が目前に迫り、現実味を帯びているとき、王がその言葉に聞き従うとは考えられない。ましてやエレミヤは、すでに公に語ることを禁じられている。エレミヤは「危険思想」の持ち主として、「公共の敵」に認定されていたのだ。
聞かれないことが予想されていたからこそ、「書き残す」という作業が行われた。今は聞き入れられなくても、後になって、エレミヤの語っていたことが真実であった、従って、エレミヤは真の預言者であったことが明らかになると信じたからこそ、その言葉が書き残されることになったのだ(申命記18:22)。

書き記されたが、反故にされた「預言書」はどれほど存在したことだろう。それと同時に、埋もれていたが、「再発見」された書物はどれほど存在することだろう。この事実が表すのは、預言者に代表される、政治的宗教的「意見」に対する姿勢は、一定不変のものではなく、時代が変われば、より正確には、時代の要請が変われば、容易に変わるものなのだということである。
聖書に書かれている言葉をどう取り扱うかということは、焦眉の課題である。読み方によっては、敵意と反目を煽ることもできれば、排除と疎外を正当化することもできる。どのような読み方も、「要請」があって行われる、もっと身も蓋もない表現を使えば、「目的」のために行われるのだ。聖書の読みに接するとき、常に、その読みを生み出したもの、あるいは、その読みが導き行こうとする方向に敏感でありたい。