2009年11月4日水曜日

降誕前第6主日

出エジプト記6:2〜13

モーセ「召命」の記事は、2つある(もう1箇所は、3:1〜17)。ヘブライ語聖書学では、いつもどおり(!)、資料に分けて説明している。しかし、物語という観点で読み直すと、必ずしも分割が必要なようには感じられない。
1回目の「召命」の後、すぐにファラオと交渉したが、かえって、ファラオの態度を硬化させ、イスラエルの人々に対する待遇を悪化させただけだった(5章)。その後、改めてヤハウェがモーセに語りかけたと読むことができる。イスラエルの人々が「重労働のため、意欲を失っていた(直訳「息が短くなっていた」)」(9節)というのも、物語の流れから見ると、理解できる。

モーセは、最初から、この使命が自分には荷が重すぎると言っていた(3:11)。今日の日課の終わりでも、重ねて同じことを言う(12節)。モーセの「謙遜」を表しているようにも読めるが、モーセはかつて、自らイスラエルの救済に立ち上がろうとしたことがあった(2:11以下)。それは挫折し、モーセは逃亡を余儀なくされた。その逃亡先で、モーセは、自分が失敗した事業への再挑戦を促されたのだった。モーセに躊躇いがあったとしても、それは当然のことだろう。
しかもヤハウェは、この事業が一筋縄ではいかないことを、あらかじめ予告している。その原因はファラオ自身にあるというより、ヤハウェが「ファラオの心をかたくなにする」からであると言われている(7:3)。わざわざそうするのは、「エジプトに手を下し、大いなる審判」を行うためであると言われる(7:4)。つまり、ヤハウェの力を示すために(7:5)、事業を困難にした上で実行させるというのである。
こんな計画を告げられて、どうして、簡単に「Yes」と言えるだろうか。しかも、ヤハウェの示威行為のために自分が利用されるというのに。

結局、モーセは、出エジプトという出来事の指導者となるが、ヤハウェの予告通り、この事業は困難を極めるものとなった。ファラオはますますかたくなにされ、イスラエルの人々は言うことを聞かず、身内のミリアムとアロンさえ反抗する。ヤハウェも、決して、「あたたかい援助者」ではない。この仕事をやり遂げたおかげで、モーセの名は不朽のものとなったのだが、どうも、割が合わないように思える。

こうして読むと、ヘブライ人への手紙(使徒書日課)が「信仰によって」と言うのは、物語を単純化しすぎているように思われる。また、「目に見えない方を見ているようにして」と言うが(27節)、ヘブライ語聖書は、ヤハウェが「顔と顔を合わせて」モーセと語ったと記している(出エジプト記33:11)。キャラクターを「理想化」(あるいは「神学化」)することで、物語の他の部分を見逃すことになっているように思える。