2009年11月4日水曜日

降誕前第5主日

サムエル記上16:1〜3

3つあるダビデの登場エピソードの1つめ(2つ目は「竪琴弾き」として登場し、3つ目は有名な「ゴリアトを倒す」エピソード)。

前々週から3週連続で、「召命」ないし「選び」の物語。選ばれるのは、アブラハム—モーセ—ダビデと続く、ヘブライ語聖書の「英雄」たちだ。しかも、どの人物も、複数の「召命」あるいは「選び」の物語をもっている。そのうちの1つが日課として選ばれている。もちろん、複数年にわたってこれらの人物を取り上げるのだから、このような事態になるのだけれど、それにしても、この3週は主題的にも連続しているし、ヘブライ語聖書を取り上げて説教する絶好のチャンスである(降誕前節に入ってからだと5週ということになる)。

ヤハウェに対するというより、サムエルに対する反抗のゆえに、サウルは王位に留まるものの、サムエル(と、彼が代理人を務めるヤハウェ)からは「王」として認められないことになってしまう(15章)。その事態をサムエルは「嘆いていた」らしい(1節)。ヤハウェは、サウルに替わるべき王を見つけたと言う。そして、ユダのベツレヘムに住むエッサイの末息子ダビデが、王(正しくはその「候補者」)として選ばれ、油を注がれる(12〜13節)。

それにしても、「王となるべき者を見いだした」と言う割に、誰がその人物なのかを提示する語り手のやり方は、まどろっこしい。7人もの若者を拒絶して、その場にいない者を呼んでこさせる。最初から名指しをすれば簡単であったし、「神意」らしく響いたろうに、ここではそのような手段に訴えない。むしろ、物語として緊張感を高める手法の方が選択されている。しかし、その結果、このエピソードには決定的な矛盾が含まれることになる。
サムエルはエリアブを見たときに、「彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った」(6節)。古代において、王の外見は、統治能力と並んで、重要な要件であった。サウルも、美しさや身長の高さが特記されている(9:2)。従って、エリアブも、その条件に合っていたのだろう。
ところがヤハウェは、「外見ではない」と言う。むしろ、「心によって見る」と、別の判断基準を示す(7節)。王となるべき条件としての外見に対する批判を述べているようである。「背の高さ」がわざわざ言われているところを見ると、サウルを選んだことへの反省も込められているのかもしれない。ところが、呼ばれてきたダビデは、「血色が良く(ヘブライ語「赤く」)、目は美しく、姿も立派であった」と言われる。そのダビデを見て、ヤハウェは「これがその人だ」と言う(12節)。やはり、王となるには「容姿やせの高さ」が重要なのではないか。ヤハウェは、自分で新しい判断基準を示しながら、結局は、旧来の自分の考えを変えられなかったのだろうか。
さらに、疑念を抱かせる記述がある。「油注がれて」「ヤハウェの霊が激しく降る」ようになった(13節)のなら、それはサウルと同じである(10:10)。容姿の形容もサウルの場合と似ている。サウルとダビデの違いは何か。既に実力を蓄え、王としての実績を上げているサウルを王位から退け、その後釜に、サウルとよく似たダビデを据えなければならない理由は何か。読者は、このエピソード以降、ダビデとサウルを比較するよう、物語に促される。