エゼキエルの言葉は、文字通りには、新共同訳の小見出しにあるように「各人の責任」について述べている。ある一時期の評判ではなく、最終的にその人が生きた生き方によって、「死ぬ」か「生きる」かが決められるという。親の「功績」も関係ない。その人のしたことだけが問題となるのだという口調は、今はやりの「自己責任」という言葉を思わせる。
その場合、「正しさ」「正義と恵みの業」(5節)の内容は、6節以下に丁寧に記されている。
こういう「公明正大さ」に対して、人々が「ヤハウェの道は正しくない」と批判していることを取り上げ(25節)、エゼキエルは弁明を試みている。
人々の批判は、エルサレムの陥落、ユダの滅亡に対して向けられたもので、「ヤハウェの民」であるはずのユダが滅ぼされるのがヤハウェの意向だとすれば、それは「正しくない」と映ったのだろう。エゼキエルの論法では、先祖(ダビデやヨシヤが思い起こされるが)にどんな立派な人物がいても、過去においてヤハウェの「掟」や「裁き」(9節)を守っていても、今この時点が問題になる。
だからこそエゼキエルは、ヤハウェの判断が正しく、今からでも「悔い改めて、……すべての背きから立ち帰」るよう、呼びかけるのである(30節)。
ここには、2つの価値判断が書かれており、その2つが衝突している。人々の感覚が正しいのか、エゼキエルの弁明が正しいのか。
「ひどい目に遭っているのは、(隠れて)悪いことをしていたからだ」という「常識」は、広く行き渡っている(例えば、「天網恢々疎にして漏らさず」)。しかし、苦境にある人は、通常、「どうして私がこんな目に遭うのか」という疑問を持つ。エゼキエル書の記す衝突は、日常生活で出会う、観点の差異が反映されているように思われる。
だとすれば、「正解」は存在し得ないことになる。ヘブライ語聖書は、全体としてはエゼキエルと同じ立場を取っている。その立場は、同時に、「全世界(歴史)の唯一の神であるヤハウェ」という論理装置を生み出すことにもなる。
しかし、エゼキエルの言うような単純な判断方法は、妥当なのだろうか。もっと複雑な要因が絡み合って、物事は起き、進んでいくのではないだろうか。エゼキエルの弁明は、私たちの判断基準に疑問を投げかける。