ペンテコステの出来事の「預言」として、使徒言行録2章に引用されている箇所。
ヨエル書は、次のような構成になっている。
- いなごによる被害とその意味づけ(1:1〜2:11)
- 悔い改めへの呼びかけ(2:12〜17)
- 回復の約束(2:18〜3:5)
- 諸国民への審判(4:1〜21)
神は、民の悔い改めに対して応答し、回復を約束する。その最後に、「霊を注ぐ」ことが加えられている。
民が「預言状態」になることを、好ましい状態だとしている箇所としては、民数記11:24〜29が上げられる。モーセは、「主の民すべてが預言者となればよいと切望しているのだ」と語る。ヨエルの語る「その日」の様子は、荒れ野でのこの出来事を彷彿とさせる。
使徒言行録は、この箇所を典拠として、「その日」の出来事を記す。モーセが「切望し」、ヨエルが「預言した」、すべての人が預言者となる状況を描くことで、救いの実現を伝えたかったのだろう。
しかし、ヨエルは、他の預言書と同じく、ユダの救いを諸国民への審判と対置させる(4章)。ヘブライ語聖書の預言者において、この2つはコインの両面のように分かちがたく結びついている。しかも、ヨエル書においては、危難は諸国民による圧迫や侵略ではなかったのに、である。
「救いの実現」と「他者の没落」をセットにする論理構造は、一見受け入れがたいが、実は、現代人の私たちにも、根深く息づいているものなのかもしれない。