イザヤ書の第3部(「第3イザヤ」と呼ばれる)に含まれる回復の預言。60:1〜7(とくに6節)は、公現日の日課として朗読される(マタイがこれを下敷きにマギたちの来訪を書いたのかどうかは、不明)。
この箇所が終末的な希望を描いているのかどうかについては分からないが(第3イザヤには多分にその傾向がある)、「来るべき日」のことについて語る際、「ヤハウェがあなたのとこしえの光となる」と言うのは、黙示録の言葉を思い起こさせる(黙示録21:23)。
このような言葉の前後には、しかし、「城壁」や「城門」(18節)、あるいは「国」(22節)という語があって、そこには、相変わらず「民族」としての関心、ことに周辺諸民族との関係で優位に立ちたいという願望が表されている。16節では「あなたは国々の乳に養われ/王たちを養う乳房に養われる」と言われていた。そうすると、「黄金と乳香」は外国の「富」が「イスラエル」にもたらされることを意味していたことになる(6節)。
「神の民」としてのアイデンティティが、他の民を従わせる、あるいは、それらの人々の上に立つことと結びついた記述はヘブライ語聖書の至る所に見受けられるが、ことにイザヤ書にその傾向が強い(例えば2:1〜4)。
もちろん、適うことのなかった願望ではあるのだが、このメンタリティーをキリスト教会が受け継いでいるとなると、話は違ってくる。圧倒的な物質文明と軍事力によってアジア・アフリカ・ラテンアメリカを植民地化したとき、キリスト教はその精神的バックボーンとなった。その論拠に、このイザヤ書のような箇所は、誂えたように使うことができるからだ。
このような願望を持ち続けながら実現しなかったということと、「預言の成就」のために行動した、いや、自分たちの行動を正当化するために、使える箇所を「預言」に仕立てるというのとでは、根本的に異なると思う。イザヤ書の言葉の「使い方」が問われるだろう。