「神の人」エリシャの物語。子どものなかったシュネムの女のために、かつて、エリシャは子どもが生まれるように「預言」した(王下4:11〜17)。その際の言葉は、abal(王下4:14「しかし」、創17:18「いいや」)、「来年の今頃」(王下4:16、創18:10)という言葉が共通しているので、アブラハムとサラに対するイサク誕生の予告と比較するよう、読者を誘う。しかも、エリシャの預言はシュネムの女の「親切」に対する「返礼」として申し出たものなので、創世記18章のエピソードと類似している。
物語は、子どもの誕生からすぐに、「事件」へと進む。子どもは、父のいる刈り入れ中の畑へ行くが、そこで頭痛を訴え(19節)、すぐに死んでしまう(20節)。エリシャはその子どもを生き返らせるが、その方法が「呪術的」である。
母親は死んでしまった息子を、「神の人の寝台」に横たえる(21節)。エリシャはまず、自分の杖をその子の顔の上に置かせる(31節)。それは効かなかったので、エリシャ自身がその子の上に、口と目と手を重ね合わせるように身を横たえる(34節)。これが功を奏して、子どもは生き返る。これらはいずれも、呪術的な癒しにおいて取られる手法である。
これまでキリスト教と、それに基づく聖書解釈では、エリシャの奇跡物語が持つ「呪術的性格」を「『民間伝承』に由来するもの」とし、後の記述預言者たちの倫理的発言よりも前時代的な、劣るものとしてきた。しかし、ここに登場する母親、シュネムの女の行動との関係で見ると、そのような判断は何かを見落としているかもしれない。
シュネムの女が息子の命を助けて欲しいと願ったとき、彼女は、それまでの境界(15節)を超えて、エリシャにしがみつく(27節)。取り次ぎに出た従者ゲハジとの言葉のやりとりでは、彼女の「苦しみ」は伝えられない。そのことを理解しながらも、エリシャは代理の者が持参する「杖」でなんとかなると考えた。それは、エリシャが、彼女の願いがどれほど切迫したものであったかを理解していなかったことを明らかにしているし、身体のもつ力を認識していなかったことを明らかにしている。エリシャの身体がその子どもの身体に触れることによってのみ、「癒し」は可能になった。シュネムの女はそれを「身をもって」示していたのだ。
「身体の接触」のみが伝え得る「力」がある(それは両刃の剣ではあるが)。だからこそ、聖書の解釈において、再び認識されなければならないことのように思われる。