預言書の中に納められているが、ヨナ書は特殊な書物である。預言者の言葉と生涯を記録した(体の)他の預言書とは異なり、ヨナ書は預言者の「物語」である。預言者という存在についての諷刺であるとする意見があるが、説得力がある。
福音書日課(マルコによる福音書4:35〜41)と間テクスト的に読むと、興味深いことが浮かび上がってくる。
ヨナは、嵐が自分のせいで起きていることを知りながら、それを解決するために何もせず、船底で寝ている(5節)。それなのにいけしゃあしゃあと自分が何者であるかを語り(9節)、自分のしたことを明かす(10節)。自分を海に投げ込めというヨナ(12節)に対して、船に乗り合わせた人々は自分たちでできる精一杯の努力をするが(13節)、それでもどうにもならず、結局、ヨナを海に投げ込む(15節)。
イエスの乗った舟がガリラヤ湖で嵐に遭ったとき、乗り合わせた弟子たちは、何も努力せず、イエスに何とかして欲しいと頼む(38節)。ところが、弟子たちのうち、最低4人(ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ)は、ガリラヤ湖の漁師であった(マルコ1:16〜20)。イエスが眠っていた(38節)のは、そんな彼らに任せて安心していたからではないか。ところが、彼らはその知識や能力を発揮しようとはせずに、イエスの「奇跡」の力に頼ろうとしている。
この2つの物語においては、「神に仕える」人々、ヨナやイエスの弟子たちは、自分でできることをしようとしなかった。一方は諦めて、他の人々を巻き添えにすることを何とも思っていなかったし、もう一方は、自分たちの力を使おうともしなかった。これらの物語において一番常識的な行動をしたのは、ヨナと同じ船に乗っていた乗組員や乗客たちであった。そして、彼らは「異邦人」であったのだ。
このような間テクスト的読みは、「信仰」というものの持つ危険な側面を明らかにしてくれる。