言わずと知れた「十戒」である。「主の祈り」「使徒信条」と並んで、キリスト教の「3要文」と呼ばれ、「教理(信仰)問答」で解説を施される。キリスト教徒にとって、「倫理」の根幹となっている。
しかし、もうひとつの版が申命記5章に記されていることはあまり知られていない(知っている人も、あまり言及しない)。2つの版には微妙な違いがあり(ことに安息日の規定に関する部分)、言葉遣いから見て、申命記のものの方がオリジナルに近いと考えられている。
「『十戒』はあらゆる法律の基本である」として、その彫刻を裁判所玄関ホールに設置した判事がアラバマ州にいた。そんな昔のことではない。2003年のことである。当然、諤々の議論を呼び起こした。連邦裁判所は撤去を命令したが、宗教右派は(教派を超えて)反対し、撤去作業の日には座り込みの抗議行動までした。
撤去に反対した人たちは、この彫刻を設置した判事と価値観を共有している。「『十戒』こそ、神から与えられた法であり、すべての法の基礎となっているものである」と、彼らは考えている。
確かに、「殺してはならない」に始まる後半は、一般的な道徳観とさして変わらないことを言っている。それが、彼らの主張の根本にあるのだろう。
しかし、それは、この「十戒」が置かれている物語の文脈を無視し、結局のところ、「十戒」の独自性を(彼らの主張に反して)否定していることになるのではないかと思う。
出エジプト記の「十戒」は、エジプト脱出の後、シナイ山にたどり着いて与えられたと書かれている。「十戒」自体もそのことを強く意識していて、「わたしは……あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と言う(2節)。つまり、この「命令」は、「エジプトを脱出した人々」に向けて語られており、その人々が守るべきものとして示されているのだ。
申命記の「十戒」も、約束の地への侵入を目前にして、戒めが再提示され、勧告が語られる。エジプト脱出後生まれた「第2世代」に向かって、最初の命令の有効性を確認していると言える。
そうすると、「隣人」という言葉にも、キリスト教が後になって付加した「すべての人」という意味はなく、同じ共同体に属する人だけが考えられていることになるのではないか。「殺してはならない」のも、同じ共同体のメンバーだけに限られる。「博愛(友愛)」を命じる普遍的な「倫理的戒め」ではないのだ。
イエスは、「十戒」を守ることの意義を、極限まで徹底化していると言えるだろう。「隣人の家を欲してはならない」(17節)という戒めは徹底すれば、「持ち物を売り払い、貧しい人々に施」す(マタイ19:21)ことになるからだ。それは、イエスも認めるように「人間にできることではない」(26節)。
「何もかも捨てて(イエスに)従って」来たというペトロだが(27節)、それは、イエスの「十戒」解釈を矮小化する発言のように思える(イエスの言葉として、その報酬の豊かさ(28〜29節)を語らせたマタイも)。そして、このペトロの発言に即して、キリスト教会は「十戒」を個人化し、救済のために守るべき箇条としてきた。アラバマの判事も、宗教右派もその路線に従っている。