ヨセフ物語(創37〜50章)の中、それまでは正体を隠し、エジプトの大臣として振る舞っていたヨセフが、その正体を兄弟たちに明かす場面。
父のことを慮るユダの言葉(44:18〜34)を聞いて感極まったヨセフは、「泣いて」身を明かす(2節)。この箇所の終わりでも、ベニヤミンをはじめ、兄弟たちを抱いて「泣い」ている(14〜15節)。ところが不思議なことに、兄弟たちは、ベニヤミンさえも、「泣いた」とは記されていない。書いていないだけで、彼らもヨセフと共に涙したと読むことは可能である。一方、書かれていないことに読者の注目が集まることも当然である。
ヨセフは、穀物を買いに来た兄弟たちを見た瞬間、彼らに気づいている(42:7)。それなのに、自分の身は隠した上で兄弟たちを尋問し、シメオンを人質に取る(24節)。再び穀物を買いに来た兄弟たちが約束通りベニヤミンを同行しているのを確認して(43:16)、彼らを自宅に招き、食事を振る舞う(16節)。しかし、銀の杯をベニヤミンの袋に戻し(44:2)、ベニヤミンを手許に置こうとする(17節)。
このようなヨセフの行動に接してきた兄弟たち(ベニヤミンを含めて)は、「驚いた」(3節)だろうし、神が計画していると言われても(5、8節)、簡単には信じることはできなかっただろう。しかもヨセフは、兄弟たちが自分を「売った」ことを、忘れずに付け加えている(4節)。ヨセフのように、「泣いて」抱き合うことができなかったとしても、不思議はない。
ヨセフは一連の行為を通して、兄弟たちを自分にひれ伏させ(37:7、9;42:6)、自分の意のままにしようとしていると読めないだろうか。父に当てた伝言に自分が「全エジプトの主」となっていることを含めているが、当然、それは、兄弟たちにも向けられた言葉であろう。家族を上げてエジプトに移住してきた際には、誰が「主」となるのかを、この伝言を通してはっきり予告しているのだ。ヨセフは、一連の行為によって、兄弟たちとの関係を決定的なものとして決着させようとしている。
福音書に語られている「赦し」と関連させて読めば、ヨセフの心の中に「赦し」があったとしても、それを利用して兄弟たちを支配しようとしたと読めるだろう。「赦し」は、赦す側の者を絶対的な優位に置くことができるのだから。