日本キリスト教団の「4年サイクル聖書日課」は、この日から、B年に入る。「4年サイクル聖書日課」は毎年、最初の日曜日に、「創造」に関する箇所をヘブライ語聖書から選んでいる。
「エデンの園」物語(創世記2〜4章)の冒頭部分。1章とは全く異なる関心で、最初の出来事を記す。
物語は、「土を耕す人」としてのアダムが土から造られるところから始まる(7節)。「アダム」と「アダマ(土)」の語呂合わせで両者の近さを印象付けた後、人は土に「仕え(通常「耕す」と訳される)、耕す」(15節)ために、エデンの園に置かれると物語は記す。その労働の実りである「園の木」の実を報酬として受け取る権利付きで(16節)。
この文脈で続きを読むと、「助ける者を造ろう」(18節)というのは、労働の仲間を造ることを目的としていたように思える。そうすると、創造された動物たちが「助ける者」とはなり得なかったということは納得できる。
ところが、「女」の登場によって、この「助ける者」の概念が変えられてしまう。24節は、男と女が「一体となる」と、これまで述べられてきた、労働のための仲間という目的が一変したことを告げる。2人は、「セックスパートナー」として認定されることになったのだ。この変化は、この前の箇所に対する注解者たちの解釈にも影響を与えているし、創世記2章全体の解釈の歴史にも影響を与えてきた。
欽定訳(1611年)はこの箇所の「概略」として、"Marriage instituted"と記した。つまり、中世以降のキリスト教が主張し、社会の枠組として課してきた「教会の祝福する結婚」の典拠とされたのだ。この箇所をマルコ10:2〜12(「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」)と結びつける「4年サイクル聖書日課」も、「結婚の制定」という解釈の路線を継承している。
しかし、この箇所が、元来は結婚という制度や性交渉に関心を向けていなかったことは、この後の3章のエピソードがそれらを語っていないことから、言えるのではないか。女が「命」と名付けられて、「母」と認定されるのはずっと後のことで(3:20)、むしろ、「神(々)のように善悪を知る」ことの方が、大きな関心となっている(3:4)。なぜ、神は人間が「善悪の知識の木」の実を食べて、「知識」を持つことを求めなかったのか。労働者が雇用している者と同じような「知識」を得ることは、その上下関係を危うくしてしまう恐れがあったからとは読めないか(マルクス主義批評的に読めば)。
そう考えると、やはり、関心の焦点は「労働」にあると言えるだろう。「結婚」「性」「家庭」に関心を向けることで、ひょっとすると、その点がぼやかされてしまうかもしれない。