エゼキエル書後半には、捕囚となっている人々に向けて語られた、回復の希望が記されている。36章はその序章となっており、罪は「清められ」(25節)、捕囚の民は故国に帰還し(24節)、そこでの繁栄が約束される(33〜34節)。しかし、それはあくまでも、ヤハウェの名誉回復が目的であり、イスラエルの復興が目的なのではない(32節)。ただ、そのことを通して、異邦人にも、ヤハウェが神とあがめられるようになる(23節)。
この序章は、続く各章を読み解くための鍵を提供している。
有名な「枯れた骨の復活」の預言(37:1〜14)に続いて語られるこの箇所では、南ユダと北イスラエルの「再統合」が告げられ、その国が「一人の王」によって統治されると語られる(22節)。
来るべき「再統合」されたイスラエルの王は、「ダビデ」と明示されている(24節)。その王の統治によって、ヤハウェの「掟を守り行う」ことが可能となるが(24節)、とりわけ、他の神を崇拝することがなくなると言われる(23節)。その結果、「約束の地」に定住し続けることができるとされる(25節)。
これらの言葉は、申命記の表現を彷彿とさせる(申11章参照)。そうすると、民の「真ん中」にあるヤハウェの「聖所」は、エルサレムということになるだろう。エゼキエルはこの後、文字通り国の「真ん中」に「聖所」がある復興されたイスラエルを思い描くことになる(45章以下)。
それにしても、「ダビデ」には言及するのに、ヘブライ語聖書ではそれと対になって登場する「エルサレム」は明言しないのはなぜだろう。エゼキエル書が申命記の語る選民思想と結びついているとすれば、他の「聖所」はあり得ない。事実、キュロスによって帰還を許可された人々は、エルサレム神殿の再建を行うし、エズラ記では、それこそが帰還の「目的」であるかのように語られている(3:10)。
「エルサレム」が言及されないのには、帰還が実現していないという事情も反映しているのだろう。あるいは、実際は前7世紀に書かれたにもかかわらず、カナン侵入前を装って記されている申命記が「(ヤハウェの)名を置くところ」(12:5)を明示しないのに倣ったのかもしれない。あるいは、明言しないことで、違う場所、例えば、捕囚の地での、共同体形成という可能性を担保したかったのかもしれない。
序章である36章によれば、ヤハウェは、自分の名誉回復を主たる目的としてイスラエルを復興する。「ダビデ」との関係は、申命記的歴史において、ヤハウェの名誉に関わるものとして描かれている。ヤハウェが「共にいた」おかげで、ダビデは、あらゆることに成功することができたのだった。
これに対し、エルサレムは、特別な地位を与えられた聖所であったにもかかわらず、時の為政者によって他の神のための祭壇が築かれたり(王上11:7、下21:4)、陥落の際には神殿の祭具が略奪されたりした(王下25:13以下)。ヤハウェの名誉が本当に回復するまで、「エルサレム」という場所の汚名は雪がれないと考えられたのだろうか。
エゼキエルの描く未来には、「民」の姿が見えてこない。部族名は記されるが(48章)、それは人間のつながりというよりは、歴史に書かれている往古の名前であるような印象を持つ。その点に関しては、37章で語られるイスラエルの「再統合」では、実際の人々が念頭にあるようにも思える。それでも、その回復を通してヤハウェが他の民にも認知されることが目的であることは、変わらない(28節)。