エレミヤは、「木片」から作られ、「金銀」で飾られた「偶像」(3〜4節)とヤハウェを対比し、ヤハウェに向かって、「あなたに並ぶものはありません」と言う(6節)。同様の「偶像批判」は、イザヤ書(40、44章)にも現れるから、バビロンの文化に触れた者にとっては、大問題だったことが想像できる。
しかし、その手法、結局、ヤハウェと「偶像」とを比べるという手法そのものが、ヤハウェを唯一絶対の神とする主張とは相容れないのではないか。「比ぶべくもない」と言いながら、比べているのだから。
ヤハウェの優越性の主張は「ヤハウェの嗣業の民」としてのイスラエルの独自性(16節)の根拠として語られているのだが、ヤハウェの超越性の主張に説得力がなくなると、もうひとつの主張も根拠が曖昧になってくる。
バビロニアの脅威を感じていた時代、さらには捕囚期にあっては、このような主張も意味があったのかもしれない。しかし、この文言を典拠に、今日において「偶像崇拝禁止」を言うことはどんな意味があるのだろうか。「私たちは『偶像』を認めない」という主張は、そのまま、絶対性の主張の根拠とされるが、人間の営みに過ぎない宗教を絶対視することは、「神以外のものを神とする」点で「偶像崇拝」なのではないか。
エレミヤ書の陥っている自己矛盾と同じ論理矛盾がここにはある。
現代においてはむしろ、絶対性を主張する者のもつ論理的矛盾——それは、あらゆる人が陥る危険性がある——を暴くテクストとして読むのがいいのではないか。エレミヤという「熱心」で「純粋」な預言者の言葉だからこそ、そう思う。