イザヤの「召命」の記事。神殿での祭儀中に、イザヤは幻を見る。それどころか、「聖なる万軍の主」(3節)を直に「見」てしまう(5節)。神を見ることは許されないことなので(出33:20参照)、イザヤは自分は「災いだ」と言うのだ。
ところが、ヘブライ語聖書では、時折、直に神を見たということが記されている。出24:11では、民の代表者たちが「神を見て、食べ、また飲んだ」と記されているし、創28:13では、ヤコブは天までとどく「階段」の「傍らに立つ」ヤハウェを見ている。「思い込み」も含めると、その箇所は決して少なくない。
ヘブライ語聖書を読むと、この神は、独り天上界で、何にも乱されずに、完全なる孤独と静寂のうちにいる「至高の存在」ではない。むしろ、人間に関わりを持とうとし、時折、過保護・過干渉なまでに介入してくる存在として描かれている。
「聖」であるということは、全く異質の存在を意味する。イザヤにとっては、最初、神は、いわば隔絶した、異質な存在として認識されていたのだろう。ところが、実は、この神は「見る」ことができるし、イザヤに触れるし(6節)、語りかける(8節)存在なのだという事実に、イザヤは目覚める。
この後イザヤは、この過干渉気味のヤハウェの代理人にふさわしく、一々のことに発言し始める。しかも、6章後半の預言が示すように、「滅亡」と「残りの者」というメッセージを通奏低音にして。
このような神観を、キリスト教は神学的に発展させてきた。「有神論」においては、超越者なる神がこの世界に関わりを持とうとすると議論される。しかしそれは、神の本質に関する議論というより、その議論をする者の「期待」の表明であると考えられる。「過保護・過干渉な親」のような神を求めているから、このような議論になる訳だ。このような「束縛」をよしとしない現代においては、神観も見直しを迫られているのではないか。