2010年1月16日土曜日

降誕節第4主日

エレミヤ書1:4~10

12月からクリスマス、年末年始の忙しさにかまけて、更新を怠っていました。申し訳ありません。

エレミヤの「召命」の記事として、よく知られている箇所である。
預言者の「召命」記事全般に共通して言えることであるが、この記事は、召命の出来事の「記録」ではない。預言者が活動を始めてある程度の時間が経った後、必要があって語られたものである(そのきっかけは様々であろう)。従って、そこには「反省」が加えられており、表現も考慮され、練られたものとなっている。
このエレミヤ書の記事の場合、書かれた時期については議論があろうが、私には、エレミヤ書の冒頭に、序文として、エレミヤ書の内容を要約し、「予告」するために置かれたものと考えると納得できる。つまり、エレミヤ書編集の最終段階で書かれたもの、従って、エレミヤ個人の体験とは無関係なものだということである(従って、この記事を根拠にエレミヤの活動年を計算することには無理があろう)。

エレミヤとモーセの間には、その記述が類似しているという指摘が古くからある(例えば、召命に対する「ためらい」など。6節、出4:10参照)。エレミヤが申命記に記された「来るべき預言者」(18:15)として描かれていると考えられてきたが、研究者の中には、エレミヤ書におけるエレミヤ像が、五書におけるモーセ像の形成に影響を与えたと考える者もあり、エレミヤ書と申命記との関係を考えるなら、この推測も妥当性があるように思われる。

この考え方に立つなら、エレミヤの活動は困難な状況(8節)の中で行われたものであったという理解が、また、それにもかかわらず、「真正な預言者」であるとの意識(9節)の下に行われていた(少なくとも、エレミヤに共感した人々にはそう受け止められたという方が正しい)という理解が、この「召命」の記事に書かれているというように読めるだろう。

「召命」の体験を後に説明する、ことによると別の人の説明であるという点では、使徒書日課も福音書日課も同じであろう。パウロの「転向」を説明するにはこれほどの劇的な体験を用意する必要があったということだし、最初の「使徒」たちがイエスの活動の最初からイエスと行動を共にしていたことを主張する必要があったということである。彼らを「正統」とするための物語であるが、私たちも、自らを「正統」と主張するための物語を必要としているのではないか。それは、何のために、どのように行われるのだろうか。