バビロニア捕囚からの解放を目前にして、バビロンで活動したと思われる無名の預言者(「第2イザヤ」と便宜上呼ばれる)の「召命」の記事。「裁き」を語るよう命じられている他の預言者(例:エレミヤ、1:10) とは異なり、「慰め」を語るよう命じられている。その言葉は、故国への帰還、ことにエルサレム復興の希望を主題としており、確かに、「慰め」を語っている。
預言者は、繰り返して、語るように命じられる(6、9節)。「神の言葉はとこしえに立つ」(8節)というのは、預言者の語る内容が、たとえ一見したところでは荒唐無稽に聞こえようと、必ず実現するということの主張であろう。ということは、捕囚にあった人々には帰還の希望はもはやなかったということだろうか。
帰還そのものは荒唐無稽ではないにしても、帰還を実現するために世界の様相まで変えられる(3〜4節)というのは、現代の読者には、奇想天外に聞こえる。第2イザヤの言葉には、このような表現が満ちている。「奇跡」としての解放・帰還を強調するために、世界の変革という奇跡も併せて語られているように思える。
「救い」の実現のためには世界・宇宙の有り様までも変えられるという考えは、この後、ダニエル書や新約書に受け継がれていく。しかし、これは、世界・宇宙を、自らにとって都合の良いもの、都合によって変更してもよいものと考える心的態度と一体だと言える。自尊感情から出発したものだろうが、劣等感の裏返しであることも否定できない。(降誕前第4主日の日課解説も参照)