エデンの園での物語は、その「東」でのカインとアベルの物語へと続く。
おそらく双子の兄弟がいて、それぞれに違う働きを生業とする。そして、それぞれが自分の「労働の実り」を「贈り物」として神のところに持って来たところから、物語が動き出す。神は、一方の「献げ物に目を留めた」が、もう一方の「献げ物には目を留めなかった」(4〜5節)。
古来、この「差」の理由が論じられてきた。農耕と牧畜という2つの文化の違いが背景にあるという説明は、ヘブライ語聖書学では、ある種「定説」のように扱われている。農耕を背景とするカナン文化に対する「否」の表明で、イスラエルの元来のアイデンティティとして遊牧民であることを強調するという物語だというものだ。
ところが、ヘブライ語聖書を通して読んでみると、「遊牧民」として描かれているのは族長たちだけで、その後は、定着し、農耕する。そもそもこの2つを対立項として考えることについては、70年代にメンデンホールとゴットワルドが疑問を呈している。従って、2つの文化の対立という読みは、あまり妥当ではないように思われる。
新約では、カインが本来的に「悪く」、従って、行いも悪かったからだと、概ね論じられている(使徒書日課、ヨハネの手紙一3:12)。「悪」は「悪人」から出るという論理である(福音書日課参照)。
この見方には疑問がある。人間は、その行動に対する評価によって「悪人」と判断される」、というのが、現実ではないか。そして、何が「悪」であるかという判断は、文化的、政治的、宗教的に縛られている。「カインは悪」とする読みも、彼が最終的に罰せられたところから発しているのではなかろうか。
カインの「怒り」に対してヤハウェが発した言葉(6〜7節)が、カインをアベル殺害へと向かわせたとは考えられないだろうか。ヤハウェが勝手な「差」をつけたためにカインは怒っているのに、そのヤハウェが、「正しいことをしたのなら、(顔を)上げられる」と言うのは、一方的に過ぎるよう思われる。説明があって、説得があって、はじめて、カインの「怒り」は収まったことだろう。